泉のほとりに

聖歌38番のように私たちの内なる力を湧きたたせ御国を目指していきましょう。共に泉のほとりに集いましょう。導かれるままに綴っていきたいと思います。

神様に侍って天国の人格を完成する

🔵 真のお父様のみ言


神様に侍って天国の人格を完成する


ですから、そのようにして、一日の生活を何気なく過ごしてはいけないのです。それは、すべて天が実際の生活を中心として天国を成すための一つの材料であり、一つの教材として私に接近させてくれるものです。そうだとすれば、それを良い結果として消化させることができる主体的な自我をどのように発見するか、ということに力を注がなければなりません。

それを発見するためには、皆さんが最初に感じ取ったものを父の前に常に相談し、共鳴体とならなければなりません。心を開け放ち、昼夜を問わず、いつでも天に接することができるそのような基準にさえなれば、必ず霊波が来るのです。

皆さんがそれを知らないだけであって、これをだんだんと段階的に育てていかなければなりません。育てて、「ああ!私が感じたことが何パーセント当たった」という自信を持てるまで、努力しなければなりません。それが体恤できなければ、「自分が精誠を尽くさず、完全な共鳴体になることができなかったために、それを感じられなかった」と考えなければなりません。私たちはアンテナと同じです。ですから、純粋なアンテナのような立場に立って、霊界の波長を感知できなければなりません。

霊界は常に霊的な波長を送信しています。したがって、私が何かをするときに必ず関係を結んでいるので、主体と対象の前にどんなものが必要な二重目的の価値になるのかが、おのずと分かるようになるのです。

それを皆さんが、最初に感じ取ったものを通して分析し、発展させることに努力すれば、自然と自分自身が実際の生活に神様を迎えて生きるようになります。観念的な神様ではなく、生活的な神様として侍って暮らせば、この険悪な世の中で、堕落せずに天国の人格を完成することができるのです。

祈祷を通して、神様の役事を通して恩恵を受ける基準に行けるかもしれませんが、それは霊界から霊人たちの協助を受けて成されることです。しかし、本来私たち人間は、生命体や生霊体をもつようになっています。私自体に霊があるのです。したがって、霊力を中心として霊の作用を開発してさえおけば、霊人たちが指導してくれなくても、私自体の生霊体において感知し得る能力が生まれてくるのです。

このように、ある基準にまで達するようになれば、神様が悲しまれるとき、私にも形容し得ない悲しみが伝わってきます。ある人に会ってから別れて送るとき、言葉に表せない悲しみを感じるようになれば、その人の行く道は、祭物の道か、そうでなければ神様が哀れむ道です。その二つのうちの一つの道であることに間違いありません。そのようなことを実際に感じ、生活圏内で刺激を受け得る立場に立った人であってこそ、体恤的な生活をしている人です。


( 「後天時代の生活信仰」 第4章 体恤信仰と侍る生活 第1節 体恤信仰の重要性 より )






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善悪は生活の中で決定する

🔵 真のお父様のみ言


善悪は生活の中で決定する


善悪というものは、思いの中で決定されるものではありません。善悪というものは生活圏内で決定されます。天国と地獄は、皆さんの観念の世界で決定されるのではなく、生活舞台で決定されるのです。これは重要なことです。

電車に乗って人々を見回してみると、気分の悪い人、気分の良い人がすぐに分かります。気分の悪い人は、自分よりも霊力が低いのです。しかし、気分の良い人は、自分の相対基準以上の人たちです。もし、霊的な体験のある人がいれば、すぐに分かります。

動物も自分の生死が分かるのに、万物の霊長である人間が、自分の人生を知らずに生きるのですか。すべて私利私欲にとらわれ、神様に背を向けて生きているので分からないのですが、神様と共に生きれば、分かるようになるのです。語るときにも、天と共に語るのです。このように暮らせば、あるときは、何の題目ももたずに出てきて、そのまま説教するのです。そして、自分が共鳴体になって語れば、口が動きます。そのようになれば、それは神様の説教です。自然と題目が浮かぶのです。皆さんがどこかに行って語り、質問を受ければ、心の門をさっと開くのです。すると答えが分かります。早いのです。その人が自分を困らせようとしているのかどうか、それを知ることができます。

それゆえに、善なるものなのか悪なるものなのかを分別できなくては、天の道を行くことができません。先生が「間違いない」と言うことは間違いありません。このような何かがあってこそ、将来、人が知らない大きなこともできるのです。

それを、どこから育てていくのでしょうか。生活で育てていかなければなりません。体恤信仰が重要なので、体恤信仰を育てていかなければなりません。そのようにしようとすれば、自分と関係した人を絶対にそのまま送り返してはいけないのです。その人に接する前よりも、プラスになるようにしなければなりません。その人が私を攻撃したとしても、プラスとなったという条件を残すのです。そのようにすれば、私は、商売をして、損をせずにいつも利益を残せるのです。このようになれば、その人が私を利用しようとしてその目的が果たせなくなるときには、その人に奪われたすべてのものをそっくり取り返すことができるのです。

主体と対象が一つになれば、その結果は主体と対象のものになるでしょう?神様が主体となり、私が対象となれば、悪なる人に絶対に支配されないのです。どんなに悪い人がいるとしても、その人の背後には、その人を後援する先祖たちの善なる功績が残っています。ですから、善は善で、悪は悪で取り戻してくることができるのです。このようなことが、私たちの生活の背後を中心として起こっていることを、皆さんは知らなければなりません。


( 「後天時代の生活信仰」 第4章 体恤信仰と侍る生活 第1節 体恤信仰の重要性 より )








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すべてのものを神様のものとして消化

🔵 真のお父様のみ言


すべてのものを神様のものとして消化


私たちが接するすべての万物は、教材です。私たちが、このような霊的な世界の直接的な感応、あるいは間接的な感応を起こすことができ、関係を結べる対象は、神様の創造物です。この創造物は、神様の性相に似て出てきたものなので、その中には、間接的ではありますが、その性相的な要素があるのです。したがって、その中には、私たちが関係を結べる善の要素、内的な性稟が必ずあるので、その性稟に従って動き、それを連結させるための生活を広めていく人がいるとすれば、その人には、どのようなことも支障を与えることはできず、マイナスにならないはずです。

さらに、皆さんは蕩減法を知っています。自分が中心的な存在になろうとすれば、公的な立場で蕩減した環境をたくさんもたなければなりません。そのようにしなければ、中心存在になることはできません。言い換えれば、自分がもっているものをたくさん差し出さなければならないのです。もっているものをたくさん差し出すのは、損害です。ですから、自分が困難なことにぶつかったり、被害を受けたときには、蕩減法で消化するのです。

私が善を行うときに、かわいそうな人のためにも与えますが、怨讐のためにも誠実に与えるのです。それは、どれほど素晴らしいことでしょうか。ですから、どんな死地に行っても被害を受けません。そのような動機の存在は、怨讐になったとしても、公的な立場から消化して越えていくのです。そのような状況でも、怨讐を怨讐と考えるのではなく、そのような位置を、両面的な価値をもち得る唯一の位置だと考え、そこから感じられる深い価値を探求するのです。

それゆえに、いかなる受難の道でも、その受難は自分にとって被害とはなりません。またそれが、引っ掛かれば死地に落ちてさまようかもしれないサタンの罠だとしても、その罠とは何の関係もなく、むしろサタンが怨讐視する勝利の結果をもたらすことができるのです。したがって、このような信仰生活をするときには、サタンがどんなに作用したとしても、神様のものとして和解させることができる立場に立つのです。神様は、悪なる世界にいらっしゃったとしても、いつも神様の立場をとることができる方です。いかなる迫害、いかなる困難があったとしても、それらが私自体をくじけさせたり、滅ぼしてしまうことはできません。むしろ、勝利の資料として、勝利の結果をもたらしてくれるのです。これは、神様が六千年の復帰歴史を導いてこられながら、サタンがどんなに反対しても、神様はそれを勝利の結果として体得し、消化させてこられたのと同じことです。ですから、このようにすれば、間違いなく神様の息子となることができるのです。このような生活態度に、皆さんが関係を結んでいかなければなりません。

物に接するときよりも、人に接するときの感情がより早いのです。ですから、人に対しての研究をたくさんしなければなりません。人に接するとき、言葉で表現しなければなりませんが、言葉だけを語っては駄目です。責任を取れない言葉は語ってはいけません。言い換えれば、実行できない言葉は語ってはいけないのです。互いに授受する場で交流し、一つの共同目標を追求していくときは、必ず実践されるものと考え、そのように感じ、そしてそれが事実そのとおりになったとき、その二人の間には、語って実行したその結果があるので、互いに喜ぶようになるのです。このようにして結ばれた友人は、同じ霊界に行くまいとしても行かざるを得ません。そのような良い友人をもてば、その友人が

高い霊界に行くようになるとき、自分も彼についていけます。自分が常にそのような関係を結び、因縁が結ばれたならば、その友人が行った霊界に自分もついていけるのです。なぜならば、彼が私と相対することを何よりも好むようになれば、私の足りないところを補って喜ぶその主体の前に、相対的位置を決定できるからです。

それで、良い師、良い友人を求めるのです。良い師と親しくし、授受しながら喜べる基準さえできれば、その師がどんなに立派であっても、その師が占有できる栄光の位置に同参できるからです。ですから、このような体恤的な環境を発展させていくのです。

皆さんが村に入っていけば犬がほえますが、そのほえる声を何も考えないで聞けば、鳴き声はすべて同じです。その「ワンワン」とほえる声は同じですが、霊的な雰囲気を中心として、神様が共にあるという立場から聞いてみると、それが千態万状に異なって聞こえます。村でほえるその犬が、金持ちの家の犬なのか、貧乏人の家の犬なのか感じが伝わってくるのです。滅びる家の犬がほえる声を聞くと、気分が悪くなります。しかし、善なる家の犬がほえる声は良く聞こえ、そのほえる声に酔いしれるようになります。気分が良くなるのです。犬がほえれば、怒ったりするでしょう?ところが、それが衝撃的で、気分の悪い鳴き声に聞こえなければならないのに、その鳴き声が拍子に合った和音のように聞こえる気分がするのです。そのような鳴き声を聞いてその家に行ってみると、予想どおり栄えている家の犬です。

また、赤ん坊が泣いても、その赤ん坊が、繁栄する家の赤ん坊かそうでないかを、そのような習慣的な立場から聞いてみれば、すぐに分かるのです。ちょっと聞いてみれば、「ははあ、あの赤ん坊は何々で泣いているのだな」と、それが伝わってくるのです。そのように伝わってくる感じが合っているかを確認しながら体験すれば、徐々に的中率が高くなっていきます。そのようにして感度を高めていかなければなりません。



( 「後天時代の生活信仰」第4章 体恤信仰と侍る生活 第1節 体恤信仰の重要性 より )





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