泉のほとりに

聖歌38番のように私たちの内なる力を湧きたたせ御国を目指していきましょう。共に泉のほとりに集いましょう。導かれるままに綴っていきたいと思います。

審判に関する真のお父様のみ言(1)終末と審判

  久しぶりに記事を書きます。今米国でそして世界で信じがたいような大変なことが起き


ており、正に善悪闘争史の総清算の時を迎えていることを実感するものです。これから数日


後に、そしてそれから数ヶ月後、数年後にも私たちは今まで全く経験したことのない出来事


を目撃し、また体験していくことが予想されます。それがどのようなことなのか、漠然と少


し想像することはできますが、まだ具体的には何もわかりません。ついつい外的な情報に


(YouTubeなどで発信されている情報)集中してしまいがちですが、私たちはこういう時


こそ聖書のみ言、真のお父様のみ言、そして亨進二代王様のみ言によって自らの信仰姿勢を


正しより内的世界を重要視しながら、この摂理の大峠を乗り越え天一国を目指していかねば


ならないと思わされます。


  かねてより愛読してきた小冊子『天運と聖霊の宿る八代教材・教本』の中に「審判と祝


福」という項目があります。数年前よりランダムにアップしたことがありますが、今のよう


な時にこそ必要なみ言ではないかと感じましたので数回に分けて再度揚げさせていただこ


かと思います。





(1)終末と審判




 これからは、み言絶対時代を経て、実体絶対時代を建設する時が来なければなりません。


したがって、み言通過時代を経て、実体通過時代の歴史的終末時代が来るのです。そして、


この時代が、いわゆる審判時代です。


(1958・11・9)




 終末が来れば来るほど、世界が現在の死亡世界として残されるのではなく、未来に見いだ


し得る何かを中心として、この世界を収拾し、清算されるのです。言い換えれば、この世界


が願うよりも劣った善ではなく、この世界が願うよりも高次元的な善の基台を中心として、


決してなくなることのない価値の内容をもった善によって、世界は必ず収拾されるのです。


その収拾される過程においての必要条件、善悪を分別するための必要条件が、正に審判だと


いうのです。


(1971・6・13)




 人格が破綻し、み言を失ってしまったのは、どうしてでしょうか。神様の真の愛を失って


しまったからです。堕落は、心情を中心として神様と人間が一つになれなかったことであ


り、真の愛を中心として一つになれなかったことです。今日、統一教会が心情の世界を論議


するようになった理由が、正にここにあるのであり、心情の世界を創建しようとする理由も、


ここにあるのです。


 ところで、いくら心情の世界を論議したとしても、自分自身がそのような心情を持てなけ


れば、その世界とは何の関係もありません。ですから、終末にみ言審判、人格審判、心情審


判の三大審判がある理由が、ここにあるというのです。


(1969・7・13)




 み言と人格と心情が審判の基準ですが、その基準はどの段階でなければなりませんか。


アダムとエバが堕落する前の段階の基準、それ以上の位置に上がっていかなければなりませ


ん。そうでなければ、み言を再び取り戻したという位置で勝利の旗印をもって現れることが


できません。そのみ言と実体を成し遂げたという位置にも立てず、またみ言の実体であられ


る神様の前に召命された人として、神様の心情を相続したという位置に立てないのです。


 ですから、その基準は、アダムとエバが堕落する前の段階より、さらに次元の高い段階で


決定されなければなりません。


(1968・1・1)




 今、審判の日が近づいてきたので、私たちは患難と悲しみの峠を越え、死の祭物となり、


新しい真理のみ言をつかみ、新しい人格となり、新しい生活理念を探し立てられる天的な


真の愛を中心として動き始めなければなりません。そうしてこそ、真の生活をすることがで


き、生涯の目的を達成することができ、新しい永生の理想生活を出発するようになるので


す。これは神様がされるのでもなく、イエス様がされるのでもなく、皆さん自身がしなけれ


ばなりません。


(1957・10・27)






よかったら、クリックお願いいたします❄️

×

非ログインユーザーとして返信する