泉のほとりに

聖歌38番のように私たちの内なる力を湧きたたせ御国を目指していきましょう。共に泉のほとりに集いましょう。導かれるままに綴っていきたいと思います。

カエルの楽園

昨年は救国運動に参加させていただいたことをきっかけに、いろんな保守活動をしてる方々の講演を聞きにいく機会に恵まれました。沖縄のジャンヌ・ダルクと呼ばれる我那覇真子さん、作家の百田尚樹さん、そして幅広い活動をされてる現在自民党国会議員の杉田水脈さんなどです。



その中で百田さんの講演会では著書の販売もされていたので、かねてから読みたいと思ってた本を購入しました。「カエルの楽園」と「今こそ韓国に謝ろう」です。どちらもとても興味深く面白かったのですが、「カエルの楽園」は特に身につまされるというか、背筋が寒くなるというか、今の日本の状態が寓話の形で適切に描かれた秀悦な作品だと思いました。



読まれた方も多いかと思いますので、ここでは内容を詳しくは書きませんが、裏表紙の説明には次のように書かれています。


「 国を追われた二匹のアマガエルは、辛い放浪の末に夢の楽園にたどり着く。その国は「三戒」と呼ばれる戒律と、「謝りソング」という奇妙な歌によって守られていた。だが、南の沼に棲む凶暴なウシガエルの魔の手が迫り、楽園の本当の姿が明らかになる……。刊行後、物語の内容を思わせる出来事が現実に起こり、一部では「予言書」とも言われた現代の寓話にして、国家の意味を問う警世の書 」


本は最初から最後まで寓話の形で描かれていますので、「ははー、これはあのことだな」と推察しながら読むのも面白いのですが、後書きの解説は櫻井よしこさんが、実に明快にしておられました。

今から読まれる方の楽しみが半減するといけませんのでここでは触れませんが、的確に比喩や喩えの説明をされています。



この作品の目的は平和ボケした日本の国民に、このままでは大変なことになる!と警鐘を鳴らすことであるのは明らかですが、このことは今日本が憲法改正をして、自主防衛できる真の主権国家になれるかどうか、という深刻な問題に直結しているのだと思います。




実は今日この作品について書こうと思ったのは、どうしてもこの「カエルの楽園」と現在の家庭連合の状態がダブって仕方がないからです。mugimusenさんのブログでも触れておられましたが、家庭連合では一般食口に対してサンクチュアリ批判をする際「この平和な時代に…銃なんか」とか「彼らは麻薬をやってるんですよ」とか愚かなことを言ってるようです。


私はこの話を知った時、若い頃まだ何も知らない時に友人が教会について言ってた言葉「男女が一つ屋根の下でいやらしいことしてるんだって。絨毯の下に電気が通ってて逃げられなくなるらしいよ」とか、また拉致監禁された霊の子が反対派から「UCは銃と麻薬の密輸組織なんですよ!」と言われたことを知り驚いたことなどを思い出しました。


正に歴史は繰り返す…と言いますか、現在の家庭連合幹部はかっての反対牧師のように、羊泥棒憎しで誹謗中傷、印象操作、レッテル貼りなど何でもあり、になってしまったんだなあ、と悲しみを覚えます。


そして一切教会が今どのようになっているか実態を知らず、美しく取り繕った耳障りのいいことだけを聞かされている食口が「韓国はお母様がおられるから大丈夫!」「清平は大丈夫!」「真の父母様は完全一体!」などと言っている姿に、カエルの楽園のカエルたちが「三戒を唱えてれば大丈夫!」、としている姿がダブってしまうのです。


辛辣なことを書いたかもしれませんが、今の私の正直な気持ちです。「何と失礼な!」と憤慨される

連合の方がおられるかもしれませんが、そういう方は是非新聞・テレビ(特に地上波)という偏向した既存メディア以外から現在の世界情勢、日本や韓国のおかれた状況について情報を得られたらよいかと思います。



昨年参加したある講演会のタイトルを思い出します。それは「もはや平時ではない!どうする日本!」でした。イラクで実際に爆撃を体験された元国会議員の方でしたが、今の日本の状況がどれ程危険かをデーターを上げながら説明しておられました。




「この平和な時代に…」どれだけ平和ボケすればそのような言葉が出て来るのでしょうか。呆れて物が言えません。一般食口の方々が良識を持って冷静に判断されますように願ってやまないものです。







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繰り返される過ち

最近聖書や原理講論を読んで思うことは、繰り返されてはならない過ちがまた繰り返されている、ということですが、このように感じる方は少なくないと思います。私たち統一食口は原理を学び、復帰歴史を学んで、歴史の中で過ちが繰り返され摂理が延長してきたことを知るようになった訳ですが、その教訓を生かすことにおいては、あまりにも不足でありました。そしてお父様のみ言に対しても不注意で怠慢であったと言わざるをえません。



原理講論の中では次の箇所がよく心をよぎるこの頃です。



イエスが「天の主なる父よ。あなたをほめたたえます。これらのことを知恵のある者や賢い者に隠して、幼な子にあらわしてくださいました」( マタイ11・25 )と言われたのは、当時のユダヤ教界の指導者層の霊的な無知を嘆かれたと同時に、無知ではありながらも、幼な子のごとく純真な信徒たちに天のことを教示してくださった恩恵に対する感謝のみ言であった。そのときと同時性の時代にあたる今日の韓国教界においても、それと同じ事実が、より高次的なものとして反復されているのである。神は、幼な子のような平信徒たちを通じて、終末に関する天の摂理の新しい事実を、多く啓示によって知らされておられるのである。しかし、彼らがその内容を発表すれば教職者たちによって異端と見なされ追放されるのでそのことに関しては、一切発表をせずに秘密にしているのが、今日の韓国キリスト教界の実情である。あたかもかっての祭司長や律法学者たちがそうであったように、今日の多くのキリスト教指導者たちは、聖書の文字を解く知識のみを誇り、多くの信者たちから仰がれることを好み、その職権の行使に満足するだけで、終末に対する神の摂理に関しては、全く知らないままでいるのである。このような痛ましい事実がまたとあろうか。

( 原理講論 第6章 再臨論 第3節 (4)595p)



今の現状に酷似していて驚くばかりです。

また、お父様は遺言と言われた八大教材・教本の一つである「平和の主人・血統の主人」の中で

次のように語られています。




一秒間で世の中が変わること


時代は移り変わりますが、皆さんの暮らす生活環境は変わりません。私たちは、昼と夜の分かれ目に気づかないように、春と夏が一秒間で変わることに気づきません。零時前と零時後の一秒を中心として気づかないのです。きのうときょうは、同じ日のように続いていますが、新しい日と新しい時代、新しい世界へと転換します。歴史も同じです。先天時代と後天時代が一秒を中心として分かれますが、それをとらえることができないのです。


( 「平和の主人・血統の主人」13p 2009年7月7日 )




新しい真理を学んだと自負していた統一食口でありましたが、時の流れと共に過去の宗教者たちが犯した過ちを繰り返してはいないでしょうか。絶対信仰と言いながら教条主義になり、固定観念の虜になってはいないでしょうか。




〈 教条主義とは 〉

状況や現実を無視して、ある特定の原理・原則に固執する応用のきかない考え方や態度。特にマルクス主義において、歴史的情勢を無視して、原則論を機械的に適用しようとする公式主義をいう。ドグマチズム。

( デジタル大辞泉より )




上記の内容は現在の家庭連合の状況にあまりにも酷似していますが、私たち三代王権に繋がらせていただいた者においても、過去の教訓を胸に刻み、謙遜と柔和を心がけ、お父様のみ言、聖書のみ言、亨進様のみ言によって、常に自らの信仰を正していくよう心がけていきたいものです。







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本質と変質

‘ 本質と変質 ’ …抽象的なタイトルになってしまいましたが、最近この言葉が頭に浮かびます。

サンクチュアリに来て嬉しいことの一つに本質的な方との出会いがあります。個性・性格も年齢や信仰歴もそれぞれに違いますが、「ああ、この方は本質的な方だなあ」「百戦錬磨であられながらこのような純粋な信仰を持ち続けておられるんだなあ」としみじみ思う方が多いのです。



本来統一食口の価値観は世の中の外的な価値観(学歴、地位、名誉、財産、権力、etc.)とは違うものだと思ってきたのですが、いつの頃からか、教会の中にあってもそのような価値観を強く持っておられる方がいることに気づくようになりました。そしてそれは○○長、と名がつく方と接する時に感じることが結構多かったように思います。そのような時、私は意外に思うと共に不思議な気がしました。原理を聞き全てを捧げて献身してこられた方なのに、今なおこのような価値観を持っておられるんだ、どうしてだろう。昔の価値観が根強く残っているのか、それとも少しずつ変質してこられたのか…と。



いろいろ考えてみるとそれはやはりピラミッド型の組織や激しい献金摂理、実績中心の体制と関係が深いのだろうな、と思わされます。お父様の指示どおりに還故郷、家庭教会摂理に取り組んでいれば、自ら僕の僕として真の愛で尽くさなければいけないので、だいぶ違っていたのではないかと思います。組織中心の歩みの中でアベル・カインが上司と部下のようになり、権威主義、実績至上主義になり、伝道の目的も少しずつずらされていくことが多かったのではないでしょうか。



私はカン・ヒョンシルお母様には一度もお会いしたことがありませんが、30年近く前所属教区に来られたことを記憶しています。集会には参加出来ず後で講話のビデオを見たのですが、その中で語られた一言にとても感動し、その言葉は私の信仰生活において指標となり今日に至っています。その言葉は「皆さん、人に近づく時にその人が教会にとって利益になるとか、そんな思いで決して近づかないでください、その方の生命を訪ねてください。」というものでした。



それは私がまだ20代の頃のことです。信仰の初期にこのような本質的なみ言を受け、心に刻みつけることができたのは幸せなことでした。その後の教会生活でこのみ言に反するような出来事に出会った時に本心が「それは、違う!」と反応し、この言葉を思い出していました。



今私たちは信じられないような事態を目の当たりにしています。私自身ここ数年の間 ○○長、○○講師と言われる方たちの驚くような言動・行動に直接・間接的に接して来ました。それは「ダブル・スタンダード」「何でもあり」また「毒食わば皿まで」というような言葉で表現できますが、一言で言うならば信仰の ‘ 変質 ’ の現れではないかと感じます。



私自身も人のことは批判できる立場ではありません。振り返れば2,000年代の後半位から、自分の信仰が習慣的、惰性的、形式的になっていたことを感じます。私たちは常にみ言に照らし合わせながら自分の信仰をチェックし刷新していくことが必要だと痛感する次第です。



信仰の初期にある講師の方が語っておられたことを思い出します。「サタンはね、私たちがゴールを目指して走っているのを上から眺めながら、‘ こいつはどうやって引っ掛けてやろうか ’ と虎視眈々と狙っているんですよ。カイン・アベルか、公金か、それともアダム・エバかってね。私たちの弱いところを知ってていろんな罠をかけるんです。最後まで歩みきれないように。気をつけましょう。」



教会の悪の首謀者においてはその罠は既得権益、追随する方においては生活基盤ということなのでしょうか。本当に心痛い思いがします。



天の導きによって三代王権に繋がらせていただいた自分ですが、この道は最後まで何があるかわかりません。サタンの罠にかからないよう謙虚に、心を引き締めて歩んでいきたいと思うものです。


人は何度でも過ちを犯します。そしてすぐにお互いを裁いたりします。私もそうです。でも神様は違うということを次の聖句で改めて感じています。




「ある人々がおそいと思っているように、主は約束の実行をおそくしておられるのではない。ただ、ひとりも滅びることがなく、すべての者が悔い改めに至ることを望み、あなたがたに対してながく忍耐しておられるのである。」( ペテロの第2の手紙3:9 )





天のお父様と三代王権に心より感謝申し上げます。







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