泉のほとりに

聖歌38番のように私たちの内なる力を湧きたたせ御国を目指していきましょう。共に泉のほとりに集いましょう。導かれるままに綴っていきたいと思います。

祈祷したことを実践しなければ

🔵 真のお父様のみ言


祈祷したことを実践しなければ


ですから、体恤信仰がどれほど必要であるかを知らなければなりません。祈祷だけしていてはいけません。祈祷すれば実践しなければなりません。祈祷は、神様との公約です。祈祷は神様と人間との公約なので、これは誓いです。ですから、祈祷すれば必ず実践するのです。そして、一つの問題をもって毎日のように祈祷する必要はありません。心からの祈祷は一度するのです。そして、10年でも20年でも、祈祷する姿勢で、それが成された場に出会うことを慕い求める心をもちなさい。そのような心をもって暮らす人が、最も恐ろしい人です。

私がお父様の前に宣誓し誓ったので、10年、いや生涯そのことが訪れるのを歓迎する姿勢で、そのことにどこで出会うかを考えながらそれを求める人は、祈祷したことが成される場に向かっている人です。祈祷だけ10年する人よりも、一度訪ねていく人が知恵深いのです。10年してそれを見つけたとすれば、その人は既に祈祷の目的を成した位置に立つのです。ですから、実践が問題です。

その実践がどこにあるのかというと、天の国の神様の中にあるのではなく、私たちの生活圏内にあるのです。私たちの生活圏内で天国と地獄が分かれます。生活圏内で天国ができ、地獄ができるのです。皆さんの心と体を中心として行動する、ここに、プラス世界とマイナス世界が行ったり来たりするのです。

私たちの教会の周囲で暮らす人たちを見れば、そのように暮らす人は一人もいません。すべて、ぷかぷか浮かんで根のない浮草のようです。根がなければなりません。語るにしても何をするにしても、この三角関係を中心として、四位基台の目的を達成しなければなりません。皆さん、創造目的とは何ですか。四位基台の完成です。四位基台は、どこにでも通じるのです。

仕事をするときも、心と体が中心と一つになって一体を成すことができなければ、これは悪です。心と体が本当に一つになれば、それが四位基台です。仕事も同じです。四位基台が目的です。私の心と体が一つになり、その仕事と一体にならなければ、四位基台の目的が成し遂げられないので、その仕事は何の役にも立ちません。監督がいるから、誰かが見ているから仕事をするのですか。天国と地獄は、空中にできるのではありません。皆さんの生活圏内で心と体が一つになり、三対象目的圏中心として、創造原理の法度によって成されていくのです。

ですから、体恤信仰というものは、霊界から協助してするというよりも、生活圏内で鑑定し、発展させていかなければなりません。自分が被害を受けることなく前進的な信仰過程と生活過程を具備できる人は、間違いなく神様が共にいらっしゃるのです。そのように発展した人に教えてあげれば間違いないので、その人が願わなくても神様が訪ねてこられるのです。

その反面、祈祷だけして行動できない人には、神様が訪ねてこられても、また離れていくのです。ですから、体術的信仰の基盤を私たちの生活圏内で立てることが、何よりも重要であることを知らなければなりません。



( 40ー275-299、1971・2・7 )

(「後天時代の生活信仰」 第4章 体恤信仰と侍る生活 第1節 体恤信仰の重要性 より )





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神様の心情を感じて暮らす

🔵 真のお父様のみ言


神様の心情を感じて暮らす


神様が喜ばれ、悲しまれることを、常に識別しながら暮らす人は、悪なる人になろうとしてもなることができず、天の法度に背こうとしても背くことができません。そのような男性は、いくら美人が誘惑しても相対しません。そこに同化できないのです。

公的であれ私的であれ、神様が最も嫌われる人は、対人関係において、人を利用しようとする人です。そして、その次には、何でも自分の利益を中心として判断しようとする人です。神様が好まれる人は、譲歩する人です。譲歩とは、自分がその人についていくことです。その人が「こうしよう」と言う、そのとおりについていくのです。ずっとついていけば回るようになり、回ればあとから自分がその位置を占領するようになります。結局は、その人のすべてのものを占領できるのです。

ですから、常に柔和謙遜にして、その人が「こうしよう」と言う、そのとおりに従順、服従、屈服しなければなりません。それはなぜかというと、その人を完全に占領するためです。人だけを占領するのではなく、その人のすべてを占領するための作戦です。したがって、私たちの信仰世界においては、自分を否定し、その代わりに相手の要求に完全に順応していく作戦をとらなければなりません。それは、自分自体がなくなるのではなく、相手を完全に占領するための一つの作戦なのです。このようなことを、皆さんは生活で感知しなければなりません。

最近はそうではありませんが、先生は昔そのようなことをたくさんしました。道端に出て、通り過ぎる人を見ながら、どのような感じがするかを調べるのです。「あの人は間違いなくこうだ」と思うとき、それが本当に当たっているかいないか、ついていって確かめてみるのです。「あなたはこうでしょう?」と尋ねてみます。それは、霊界で教えてくれるのではなく、自分の心が既に知っているのです。それで、「あなたはこのような人ですね」と尋ねてみれば、「どうして分かるのですか」と驚くのです。間違いなく当たります。じっと座って、あの部屋に誰がいるのか、良いことをしているのか、悪いことをしているのか、良い人が暮らしているのか、悪い人が暮らしているのかを、すぐに知ることができるのです。皆さんもアンテナをだんだんと高めていって、そのように発展させなければなりません。ですから、宇宙のすべての因縁に従って識別する鑑別士の生活が、信仰者の生活です。



( 「後天時代の生活信仰」 第4章 体恤信仰と侍る生活 第1節 体恤信仰の重要性 より )






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神様に侍って天国の人格を完成する

🔵 真のお父様のみ言


神様に侍って天国の人格を完成する


ですから、そのようにして、一日の生活を何気なく過ごしてはいけないのです。それは、すべて天が実際の生活を中心として天国を成すための一つの材料であり、一つの教材として私に接近させてくれるものです。そうだとすれば、それを良い結果として消化させることができる主体的な自我をどのように発見するか、ということに力を注がなければなりません。

それを発見するためには、皆さんが最初に感じ取ったものを父の前に常に相談し、共鳴体とならなければなりません。心を開け放ち、昼夜を問わず、いつでも天に接することができるそのような基準にさえなれば、必ず霊波が来るのです。

皆さんがそれを知らないだけであって、これをだんだんと段階的に育てていかなければなりません。育てて、「ああ!私が感じたことが何パーセント当たった」という自信を持てるまで、努力しなければなりません。それが体恤できなければ、「自分が精誠を尽くさず、完全な共鳴体になることができなかったために、それを感じられなかった」と考えなければなりません。私たちはアンテナと同じです。ですから、純粋なアンテナのような立場に立って、霊界の波長を感知できなければなりません。

霊界は常に霊的な波長を送信しています。したがって、私が何かをするときに必ず関係を結んでいるので、主体と対象の前にどんなものが必要な二重目的の価値になるのかが、おのずと分かるようになるのです。

それを皆さんが、最初に感じ取ったものを通して分析し、発展させることに努力すれば、自然と自分自身が実際の生活に神様を迎えて生きるようになります。観念的な神様ではなく、生活的な神様として侍って暮らせば、この険悪な世の中で、堕落せずに天国の人格を完成することができるのです。

祈祷を通して、神様の役事を通して恩恵を受ける基準に行けるかもしれませんが、それは霊界から霊人たちの協助を受けて成されることです。しかし、本来私たち人間は、生命体や生霊体をもつようになっています。私自体に霊があるのです。したがって、霊力を中心として霊の作用を開発してさえおけば、霊人たちが指導してくれなくても、私自体の生霊体において感知し得る能力が生まれてくるのです。

このように、ある基準にまで達するようになれば、神様が悲しまれるとき、私にも形容し得ない悲しみが伝わってきます。ある人に会ってから別れて送るとき、言葉に表せない悲しみを感じるようになれば、その人の行く道は、祭物の道か、そうでなければ神様が哀れむ道です。その二つのうちの一つの道であることに間違いありません。そのようなことを実際に感じ、生活圏内で刺激を受け得る立場に立った人であってこそ、体恤的な生活をしている人です。


( 「後天時代の生活信仰」 第4章 体恤信仰と侍る生活 第1節 体恤信仰の重要性 より )






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