泉のほとりに

聖歌38番のように私たちの内なる力を湧きたたせ御国を目指していきましょう。共に泉のほとりに集いましょう。導かれるままに綴っていきたいと思います。

教会長という立場は、天使長の使命をするのですーカイン・アベルについてー『信仰と生活ー第1集 原理の生活化』より

最近いろんな方のブログを読みながら、カイン・アベルについての概念、定義、解釈などが人によって少しずつ違うのではないかと感じていましたが、そのことを通して過去愛読していた李ヨハネ先生の著書『信仰と生活 第1集 原理の生活化』の中でカイン・アベルについて書かれた箇所を思い出し、再読してみました。とても参考になる内容ではないかと思いますのでアップさせていただきます。



13 カイン・アベル


教会の兄弟達の間に、カイン・アベルという情的な位置が決まらないと、悩みがすぐに起こってくる。これは教会だけではなく、家庭的にもそうです。そしてまた、社会生活においてそういう面が明らかでないと、すぐに霊的に暗やみが来て影になるわけです。

カイン・アベルという関係、教会でいえば教会長と兄弟たちとの間、また兄弟同志の間でその位置が決まればいいけれど、それが原理的に組織できない場合があるわけです。

そういう場合は、聖書でいっている通り、他人を皆自分より以上の人と、謙遜に思いなさい、というのです。



教会長という立場は、天使長の使命をするのです。というのは、天使長はアダム・エバの言葉を盗んでいったから、復帰は天使長がそれらのものを持ってきて神の息子娘たちに渡してやるのです。だから、皆様に言葉を伝えるとか教えるとかいう立場は、天使長の立場なのです。これが復帰です。今度私達が来た立場もそれと同じです。私達が皆様方に何か自分の体験を証すというこの立場の目的は、皆様がもっとこの時代の責任を持っていかなくてはならないから、補助に来たわけなのです。だから私達が主体者ではなく、皆様が主体になっているのです。教会長もその立場なのです。その地方の人の為に行ったのだからその立場は仲保者であり、結局は召使いというわけです。だから、自分の主張を、自分より以上神に孝行する方面に補助してやらなくてはいけない。それが教会長の責任なのです。天使長は、アダム・エバを神の子女として尊敬し、侍らなくてはならない立場です。それだから韓国でも教会長が兄弟に命令したり怒ったり、自分勝手に兄弟を指導する時がしばしばあって叱られるのだけれども、それでは自分も成長できないし、皆様の行く道を邪魔することになるわけです。



旧約時代には、神が僕の立場で人間に侍ってきたのです。イエス様も地上にあっては、ひとり子として暮らしたのではないのです。精神的秘密では息子の位置にあったけど、実際生活にはそうでなく、僕としての使命を果たしたのです。僕の立場として、そうして言葉を伝える時にはバプテスマのヨハネの立場で証したのです。バプテスマのヨハネは天使長の立場だから、イエス様は3年間、内容は神のメシヤとして来たけれど、実際は天使長の立場で尽くしたわけです。それが人々を、天の息子娘という子女の立場まで連れていってはじめてメシヤの位置に立つのです。教会長の場合もそうです。教会長も天使長の使命を3年なら3年、7年なら7年やって、その間自分より以上神に対して忠誠なる子女を12名得てから、自分が子女という立場を認められる立場になるか否か、という問題になるわけです。結論的に言うなら、精神的には神と縦的な因縁を持つ父の立場で、実際の生活には僕として天使長の使命を果たさなければ、本当の自分の位置に帰れないわけです。子女の立場から天使長と堕ちたのが堕落であるから、天使長の立場で侍るということを通して子女の立場に行かなくてはならないのが復帰の道なのです。



言ってみれば、アベル・カインという立場はいつも決定していないわけです。例えば伝道に行く時、行かなくてはならない自分の体、それは自分の霊が体を通してどこかへ行く時で、その肉体はアベルになるのです。だから、いつも心だけがアベルということにはならない。仕事によって、使命によってその関係が決まるのです。教会でいえば、経済的に責任を持った人がアベルになる時もあるし、伝道の時には説教する人がアベルになる時もあるし、要は、その仕事に誰が中心になるかという問題になるのです。家庭に帰って来ても、事の責任を持った人がアベルになるのです。ですから、その時間はそのアベルに対して謙遜に喜びながら侍って、その人を慰めなければいけないのであって、食事の時もいつでも自分が上であるという立場に立たれないわけです。その時々の仕事によって、中心となる兄弟がアベルの立場で苦労するわけです。そこに平和があるのであって、一人だけがアベルというように決まった考えをもったら、その教会は苦しみ、家庭にも苦しみが来るのです。だから、そういう考えで解決したら、各々教会生活においての自分の位置が分かると思います。そうすれば、おのずと人の位置をわかってやらなくてはいけないし、そこでも自分は自分と、自分だけの道理を通せば、それは固執になってしまって、それは従うことにならないし、忠誠にならないのです。







上記を読むとカイン・アベルにはとても深い内容があり、そのことを踏まえた上での捉え方が非常に重要だということを改めて感じます。過去を振り返ると責任者も私たちも理解が浅くそれ故に問題が生じていたことがあまりにも多かったようです。これからは皆が正しく理解を共有していけたらと願うものです。



ブログの中では埼玉サンクチュアリ教会さんが25日にアップされた『「組織」と「関係(信仰)」との違い』も大変参考になりました。ありがとうございました。






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