泉のほとりに

聖歌38番のように私たちの内なる力を湧きたたせ御国を目指していきましょう。共に泉のほとりに集いましょう。導かれるままに綴っていきたいと思います。

最終的な真理とはー改めて「総序」に学ぶ

  最近「真理の定義とは?」というようなことを思っていましたら、原理講論の「総序」



のある部分が頭に浮かびその箇所を確認してみました。次の箇所です。




  『……このように、人間を生命の道へと導いていくこの最終的な真理は、いかなる教典


や文献による総合的研究の結果からも、またいかなる人間の頭脳からも、編みだされるもの


ではない。それゆえ、聖書に「あなたは、もう一度、多くの民族、国民、国語、王たちにつ


いて、預言せねばならない」(黙10・11) と記されているように、この真理は、あくまでも


神の啓示をもって、我々の前に現れなければならないのである。それゆえ神は、既にこの地


上に、このような人生と宇宙の根本問題を解決されるために、一人のお方を遣わし給うたの


である。そのお方こそ、すなわち、文鮮明先生である。先生は、幾十星霜を、有史以来だれ


一人として想像にも及ばなかった蒼茫たる無形世界をさまよい歩きつつ、神のみが記憶し給


う血と汗と涙にまみれた苦難の道を歩まれた。人間として歩まなければならない最大の試練


の道を、すべて歩まなければ、人類を救い得る最終的な真理を探しだすことはできないとい


う原理を知っておられたので、先生は単身、霊界と肉界の両界にわたる億万のサタンと闘


い、勝利されたのである。そうして、イエスをはじめ、楽園の多くの聖賢たちと自由に接触


し、ひそかに神と霊交なさることによって、天倫の秘密を明らかにされたのである。…』





この箇所を改めて読んで感じたことは、本物の真理、誤ちを含まない真理を解明することは


常人には難しく、キリスト、メシヤによって顕されてこそ天に許諾された真理と言えるので


はないか、ということです。


常人であっても、かなり素晴らしい内容を解くことは出来るかもしれませんが、それは相対


的なものであり、それを解いた本人、もしくは他の者がそれを完全なものとして絶対視する


ことは危険であり、それぞれの知性と霊性において受け止め、あくまでも「参考にする」


という次元にとどめることが賢明ではないかと感じる次第です。








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