泉のほとりに

聖歌38番のように私たちの内なる力を湧きたたせ御国を目指していきましょう。共に泉のほとりに集いましょう。導かれるままに綴っていきたいと思います。

み言の “編纂”

真のお父様はご存命中に8大教材教本は遺言だと繰り返し繰り返し語っておられました。

ですから聖和された後に新天聖経や平和経の編纂のことを初めて聞いた時は 「どうしてまた作るの?」と素朴な疑問を持ちました。そのことに関する説明の映像を教会で見ましたがお母様や徳野会長が新しい経典を作る意義を語っておられました。私の所属教会では天福函を持っている人は少なかったのですが黒の天聖経を持っている人は多くこのことに関しては「え〜っ! 何で?」と口にしている人もいました。しかしその後の流れは教会長の 「皆さん、頑張って早く新しい天聖経を授かりましょう!」という言葉により方向性が決まっていくのでした。


私はお父様が遺言と言われ「手をつけるな」と言われたものが変えられることには抵抗がありましたが “み言に手をつけるんじゃなくて編集し直すだけならいいのかな” と思ったりしていました。そして

天福函も黒の天聖経もうちでは手が届かず欲しくても授かることができなかったのでその新しい天聖経を何とか頑張っていただきたいものだ、子供にも残してあげられるし‥‥などと思い主人とも話し合って一度には難しいので少しずつ献金をしていったのでした。


その年の夏か秋頃だったでしょうか全体の訓読条件は新しい天聖経で、と指示がきました。教会では目標に達した人から皆の前で伝授されていきました。持っていない人は条件ができません。そして「お母様が年内に完読するよう言われています」と聞き、皆なんとかして早く伝授されたい、という思いになり無理して献金をしていきました。


うちも何とかその後伝授してもらうことができ私は素直に嬉しかったのです。これでやっと教典を授かることができた、子供にもお父様のみ言を残してあげられる、と‥‥。当時はそれが一体どういう教典なのか全くわかっていませんでした。ただ徐々に “訓読しても内容が入ってこないなあ、どうしてかなあ‥‥” と感じるようになっていきました。完読しても感動や達成感がないのです。そしてその理由はだいぶあとになってわかるようになるのですがそこに行き着くまでにはまだいろんな過程があるのでした。


今赤い天聖経、平和経は本棚にしまっています。お父様の教典としてではなく考察の対象としてですが。


それでは、また。





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聖婚問答

神様の呼称、天一国国歌、家庭盟誓などの変化に初めは戸惑い違和感や疑問を感じた自分でありましたが時が経つにつれそのような思いも少しずつ薄れ習慣的に受け入れていくようになっていきました。


そんなある日のこと教会で祝福式の様子を映像で見る機会がありました。お母様が主礼をされていました。何気なく見ていた自分でしたが聖婚問答が変わっていることに気づいた時少なからずショックを覚えました。4つではなく1つにまとめられかなり短くなっていたのです。心に静かな衝撃が走りました。“聖婚問答が変わっている‥‥” しばらく言葉を失いました。映像が終わり周りのみんなはいすを動かしたりお茶の用意をしたりしています。私も手伝うために動き別に「聖婚問答が変わってる!何で?どうして ?」と騒いだりはしなかったのですがこの時のことは私の心のなかでかなり大きな疑問として残りました。


今思えばいろんな疑問はそのつど口に出して言えばいいのに何故そうしなかったのでしょうか。それは思ったことをすぐ口にするタイプではない自分の性格もありますが自由闊達に意見や疑問点などを述べ合うことをしない日本人気質、そして何でも「何か意味がある」として受け入れようとする習慣、また教会内であまりそのようなことを口にする人がいない、ということがあったかもしれません。後日だいぶあとになって私はこのことをある先輩家庭の方に話したことがあります。長年公職に就き責任者をして来られた方でしたがあまり意に介しておられないようでした。お母様がなさることなので私たちがあれこれ言わなくていいんですよ、という感じです。


いろんなことを亨進様によって明らかにしてしていただいた今思うことは教会の中でサタンは長年にわたり準備をしてきたんだな、ということです。亨進様は家庭連合の食口が「魔法にかかってる」といわれますがその魔法は一朝一夕にかけたものではないということです。それは教会の中でお父様の教え、指導を利用しながらその真髄とは似て異なるものを作り上げてきた、本然の教会の文化とは違うものができてしまっていた、ということではないかと思います。そして私自身もその中で過ごしてきた故にたとえ長年慣れ親しんできた兄弟姉妹ともに歩んできても本当の心の復活を得ることができずにいたんだろうなと感じます。


数々の変更はまだまだ続きます。次回はみ言葉について書いていきたいと思います。

それでは、また。






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小さな疑問

真のお父様の聖和後いろんな変更がなされましたがその度に小さな疑問と違和感を感じていました。


最初に感じたのは神様の呼称が『天のお父様』から『天の父母様』に変わった時です。まず思ったのは ‘’神様は本性相的男性と本形状的女性との二性性相の中和的主体だから神様に父性と母性があるのはわかるけど…でも被造世界に対しては性相的男性格主体なんだから『天のお父様』ではいけないんだろうか?‘’ ということでした。

そのような疑問を持ちはしたのですがそのころの私はまだ純粋に本部を信じ、いろいろあったとしても責任者を信じ、勿論真の父母様は一体であると信じていたので疑問を突き詰めて考えることはしなかったのです。ただ違和感はずっと続き『天の父母様』という呼称には全く情がいきませんでした。


次に驚きと疑問を感じたのは天一国国歌が変わった時です。天一国歌が『栄光の賜物』に決まったと聞いた時、大好きな聖歌だったのでとても嬉しかったのです。お父様によって書かれた由来も知っていたので本当に国歌にふさわしい歌だと思いました。

所属教会では練習もしてました。譜面が二通りあるので統一しますとちゃんと配られてずれないように練習しました。

それが何か表面的な軽い歌詞の歌に変わってしまいがっかりしました。ずっと情がいかず教会では仕方なく歌っていましたが家や車の中ではよく『栄光の賜物』を歌っていました。その後本部から小冊子で変更の理由が述べられていましたが “そんなことがメシアが決められた国歌を変える理由になるだろうか?”と全く納得がいきませんでした。


その後もいろんな変更がなされていきます。私は何が起きているのか知るよしもなく末端食口として従っていくのみでしたが心の奥底に打たれていく‘’疑問‘’ という点は少しずつ増えていきます。そしてその点はやがて線になっていくのでした。


今日はこの辺で。また書かせていただきます。




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