泉のほとりに

聖歌38番のように私たちの内なる力を湧きたたせ御国を目指していきましょう。共に泉のほとりに集いましょう。導かれるままに綴っていきたいと思います。

2014.7.1講話の衝撃

2014年の7月にお母様の講話を聞いた時のことは今もはっきり覚えています。

その日教会で他の食口と一緒に映像を見ていました。お母様のみ言ということで皆静かに聞いていました(字幕付きの映像だったと思います)わりと長いお話だったと記憶していますが私はお母様が次のように語られた時に驚きと戸惑い、そして何とも言えない違和感を感じたのです。それは主に次の箇所でした。


⚫︎ここに座っている真の母は、6千年ぶりに誕生した独り娘です。説明することができます。あらゆる証拠がすべてあります。


⚫︎イスラエル民族を通して独り子を送るまで聖別してこられた摂理歴史があります。

血統転換。私は胎中にいる時からそうなのです。皆さんがこのことを信じなければなりません。


⚫︎お父様の歴史は、そうです。イエス様の顕現とともに、イエス様の使命を継承したその時が、その瞬間が、お父様の独り子の資格です。わかりましたか?そのことを知らなければなりません。今までの2千年歴史は、独り娘を探してこられた歴史です。



お話全体と語られる雰囲気に今までのお母様と何か違う違和感を感じたのですが特にこの内容を語られた時には驚きました。それまでに原理やお父様のみ言から学んできたことと違っていたからです。牧会者からも「お父様は無原罪で誕生され天から来られた方、お母様は地から復帰されお父様が再創造して来られた方です」と言うような内容を聞いて来ましたのでお母様は一体どうしてこのようなことを語られるのだろうか‥‥と頭が混乱したのです。そして何かお父様を否定されたような悲しく苦しい気分になりました。


集会が終わったあと私は自分が疑問に思ったことに関して教会長にお尋ねしました。するとこのように答えられたのです。「うーん、そうだよね。私もあれっ、て思いましたよ。だってお母様は3番目の方ですしねー。どういうことでしょう、ちょっと私にもわかりませんね。お母様が語られるので何か意味があるんでしょうけどね‥‥」で終わってしまいました。


いろいろ小さな疑問を抱えてきた私でしたが今回のことはそれまでと比較にならない衝撃を伴って心に残りました。そしてこの疑問を解決すべくより注意深く関連する内容を調べるようになりましたが

私のように衝撃を受けた人も多いようでネット上ではいろんな所で取り上げられていました。


このような出来事をとおして私はお母様の問題と直面するようになるのですがそれが自分にとってどれだけの打撃になるのかはその時はまだわかっていませんでした。しかしそれから間も無く核心に至る時が来るのでした。



それでは、また。






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お母様について

教会に対しての、またお父様聖和後のいろんな変更に対しての疑問を解決すべく調べていた私でしたがその過程を通して今まで考えていなかった問題に遭遇するようになりました。それはお母様や清平に関することでした。


お母様に対してそれまでどのような思いを持っていたかというとお父様と共に筆舌に尽くしがたい試練の道を通過されながら愛と忍耐と許しで越えてこられた女性であり人類の真の母として勝利された偉大な方として敬愛していました。

そしてお母様の偉大さはお父様の対象として絶対信仰、絶対愛、絶対服従で侍ってこられたことであり世の中の実力はあるけど自己主張の強い女性などとは次元の違う方だと思ってきました。


私は献身生活をしていた頃、つらいことがあればあるほどお母様のことが思われました。“真の母“という小冊子が大好きでその中にある “忍耐して祈る”、“要求せずに陰で祈る” という箇所に感動して自分もそのようになりたいと思っていました。その本は家庭を出発する姉妹にプレゼントして今は手元にありませんが‥‥。最近調べたら光言社で今は出ていないようで他のお母様の新しい本がいろいろ出版されてるようでした。


お母様の夢も何度か見ました。千葉修練所で21日修参加中に見た夢はとても印象的でした。お父様とお母様が韓国式の食卓でお食事されているのですがお父様がスプーンでお母様に食べ物を口元まで運び食べさせておられるのです。そしてお母様は素晴らしい笑顔でそれはそれは美味しそうに召し上がっておられ私はそれを見て “ああ、万物ってこんなに喜んで美味しそうにいただくものなんだな‥‥” と思う夢でした。


また実体のお母様にお会いして聖霊体験のような恩恵を受けたこともあります。お母様からとてつもなく清く芳しい霊気を肌で感じたのです。その時 “このお方はまさしく聖霊実体なのだなあ” と思いました。


そういう私でしたから神山会長の講演文の中にお母様のことを“晩年のお父様に対して従順でなかった、お母様は変わられた” と書かれているのを読んだ時信じ難くそんなことを言う神山会長に対し不審な思いを持ったりしていました。


そしてお父様聖和後お母様が重責を担われてどれ程大変だろうか、お体は大丈夫だろうかと思い毎日お母様が守られるよう祈祷を捧げていました。それは食口であれば皆そうではなかったかと思います。


ただ私は今思えばお母様に関し少し気になることが以前からありました。それはお父様がまだご健在の時のことですがお二人で写っておられるお写真のお母様の表情が浮かない顔、心そこにあらずと言うかしらけたというかそのように見えることが何度もあったのです。しかしそれは瞬間的に感じる微かなものでしたし “お疲れなんだろうな‥‥”と考えたりしていました。今になってみればお母様のそのような表情の意味もわかるのですが‥‥


お父様聖和後のいろんな変更に関して調べていけば必然的にお母様のことにつながっていきますが当時の私はまだはっきりわかっていませんでした。ネットではいろいろ出ていましたがお母様を信じていたのです。しかしその後私は直視しなければならない核心的な出来事に出会うことになるのですががそれが教会で映像で見た「7・1講話」でありました。



今日はこの辺で。





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情報の選択

ブログ村を訪問するようになってそれまで経験したことがない程教会に関する沢山の情報に接するようになりましたがそのことは同時にその中から良質な情報を選択していく必要があることを意味しました。“良質な” と言うのは人によって定義が違うかもしれませんがまず真実であること、また発信する動機が善であることなどが上げられるかと思います。


主人に「それが正しいかどうかどうやって判断するんだ?」と言われた私はあることを思い出しました。それは若い頃にあるアメリカ人に言われた言葉です。“新聞などの記事は事実、推論、書き手の判断の3つが入り混じってる。どれが事実でどれが推論、判断なのかちゃんと押さえて区別して読まないといけない。そうしないと偏向した記事の場合影響を受けてしまう” とアドバイスされたことがあったのです。


それから記事を読む時はできるだけ事実と確認できることを押さえるように努力しました。とは言ってもそれだけが総てではなく好感が持てるというか感性で惹かれる記事もありますね。そういう人のブログはよく読ませていただきました。そして今そういう方たちがサンクチュアリに来られてるのを知ってやはり心性、霊性のようなものが相対してたのかなあと不思議でもあり嬉しく思っています。


そして何より大事なのはお父様のみ言に照らし合わせて確認することだと思いましたので本棚に収まって長いこと読んでなかった本を引っ張り出して読むということが続きました。「み旨と世界」「祝福家庭と理想天国」「宗族的メシア」など久しぶりに読んで恩恵を受けました。疑問に思ってきたことに答えを見出したかったので深夜まで祈祷室にこもりスマホを見たりみ言を読む毎日でした。時折部屋を覗いてくる娘に「お母さん、またスマホしてる!やり過ぎ!のめり込んじゃダメだよ!」と言われながら。(それまで私が娘に言うセリフだったのですが‥‥😆)


そのような日が続くうちに私は今までの疑問と違った別の問題にも出会うようになるのですがそれがお母様のことであり清平に関することでした。そしてそのことは幹部の不正などとは比較にならないくらい私にとって大きな試練となるのでした。


それでは、また。





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