泉のほとりに

聖歌38番のように私たちの内なる力を湧きたたせ御国を目指していきましょう。共に泉のほとりに集いましょう。導かれるままに綴っていきたいと思います。

今年の抱負

久しぶりに記事を書きます。

陽暦では2019年を迎えました。新年明けましておめでとうございます🌅🎍

今年もよろしくお願いいたします。


今朝、南米の友が聖句をメールしてくれました。よく送ってくれるのですが、いつもその時の私の状況、心境にふさわしい内容なので驚くばかりです。今日送ってくれたのはエレミヤ書でした。



「主は言われる。わたしがあなたがたに対していだいている計画はわたしが知っている。

それは災を与えようというのではなく、平安を与えようとするものであり、あなたがたに将来を

与え、希望を与えようとするものである。」( エレミヤ書29章11節)



彼は12月24日に最愛のお父さんを亡くし悲しみの中にある時なのですが、変わらずに私を励ましてくれるような聖句を送ってくれることに深い感動を覚えます。彼は福音派プロテスタントですがつくづくすごい信仰者だと思います。近いうちにまた人参茶を送ろうと思いますが、その時に『鉄の杖の王国』の本を一緒に送るつもりです。



7年艱難期間もあと2年数ヶ月ですが、これから世界は益々激動の時を迎えることになるでしょう。

東アジア情勢を思えば、今後一体どの様な展開になっていくのかそら恐ろしい気がしますが、上記の聖句を天の声ととらえて、気を引き締めつつ勇気と希望を持って前進していきたいと思います。



昨年は生きて働かれる神様の技を実感した年でした。行き詰まっていた伝道が、一人の連合の方がお父様の夢を見たことをきっかけに導かれて、今8家庭まで増えました。昨年はほとんどその方たちの学びのお手伝いをすることに投入してきましたが、それが一段落する頃に私の周りに変化が起き始めました。以前交流してきて伝道が難しかった方との関係が復活してきたのです。


3人の方と自然な形でまた授受ができるようになりました。新規でまだこれからという人、昔一通り学んだけどつながらなかった方などいろいろですが、一人の方はこれからまたうちで原理と聖書を学ぶことになりました。


サンクチュアリに来られた方の学びが一段落した頃に、入れ替わるように新規の方が繋がってきたことに不思議な導きを感じますが、思えば時が来たということなのでしょう。皆さん疎遠になっていた間に災害や肉親の死などいろんなことを通過されて人生観が変わって来られた様な感じです。

何よりも私自身が三代王権に繋がらせていただいたことが一番大きいと思いますが、過去を振り返って反省することが多いです。今振り返れば、その方の心情を汲み取って寄り添うことより、決められたルートに乗ってもらえるよう躍起になっていた組織信仰に捕らわれた自分の姿が思いおこされます。


一人の方がネットでいろいろ調べておられ、グローバリズムなどについて話が通じる様になってたことも驚きでした。今その方は私が紹介した馬淵睦夫氏の本や『スイスの民間防衛』などの書籍を熱心に読んでおられます。




神様の導きは自分の思いを越えて奥妙にして深遠であることをつくづく感じ感謝です。2019年は歴史的な10月14日を見据えながらさらに前進していけるよう歩んでいきたいと思います。

皆様共に頑張りましょう。






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教会長という立場は、天使長の使命をするのですーカイン・アベルについてー『信仰と生活ー第1集 原理の生活化』より

最近いろんな方のブログを読みながら、カイン・アベルについての概念、定義、解釈などが人によって少しずつ違うのではないかと感じていましたが、そのことを通して過去愛読していた李ヨハネ先生の著書『信仰と生活 第1集 原理の生活化』の中でカイン・アベルについて書かれた箇所を思い出し、再読してみました。とても参考になる内容ではないかと思いますのでアップさせていただきます。



13 カイン・アベル


教会の兄弟達の間に、カイン・アベルという情的な位置が決まらないと、悩みがすぐに起こってくる。これは教会だけではなく、家庭的にもそうです。そしてまた、社会生活においてそういう面が明らかでないと、すぐに霊的に暗やみが来て影になるわけです。

カイン・アベルという関係、教会でいえば教会長と兄弟たちとの間、また兄弟同志の間でその位置が決まればいいけれど、それが原理的に組織できない場合があるわけです。

そういう場合は、聖書でいっている通り、他人を皆自分より以上の人と、謙遜に思いなさい、というのです。



教会長という立場は、天使長の使命をするのです。というのは、天使長はアダム・エバの言葉を盗んでいったから、復帰は天使長がそれらのものを持ってきて神の息子娘たちに渡してやるのです。だから、皆様に言葉を伝えるとか教えるとかいう立場は、天使長の立場なのです。これが復帰です。今度私達が来た立場もそれと同じです。私達が皆様方に何か自分の体験を証すというこの立場の目的は、皆様がもっとこの時代の責任を持っていかなくてはならないから、補助に来たわけなのです。だから私達が主体者ではなく、皆様が主体になっているのです。教会長もその立場なのです。その地方の人の為に行ったのだからその立場は仲保者であり、結局は召使いというわけです。だから、自分の主張を、自分より以上神に孝行する方面に補助してやらなくてはいけない。それが教会長の責任なのです。天使長は、アダム・エバを神の子女として尊敬し、侍らなくてはならない立場です。それだから韓国でも教会長が兄弟に命令したり怒ったり、自分勝手に兄弟を指導する時がしばしばあって叱られるのだけれども、それでは自分も成長できないし、皆様の行く道を邪魔することになるわけです。



旧約時代には、神が僕の立場で人間に侍ってきたのです。イエス様も地上にあっては、ひとり子として暮らしたのではないのです。精神的秘密では息子の位置にあったけど、実際生活にはそうでなく、僕としての使命を果たしたのです。僕の立場として、そうして言葉を伝える時にはバプテスマのヨハネの立場で証したのです。バプテスマのヨハネは天使長の立場だから、イエス様は3年間、内容は神のメシヤとして来たけれど、実際は天使長の立場で尽くしたわけです。それが人々を、天の息子娘という子女の立場まで連れていってはじめてメシヤの位置に立つのです。教会長の場合もそうです。教会長も天使長の使命を3年なら3年、7年なら7年やって、その間自分より以上神に対して忠誠なる子女を12名得てから、自分が子女という立場を認められる立場になるか否か、という問題になるわけです。結論的に言うなら、精神的には神と縦的な因縁を持つ父の立場で、実際の生活には僕として天使長の使命を果たさなければ、本当の自分の位置に帰れないわけです。子女の立場から天使長と堕ちたのが堕落であるから、天使長の立場で侍るということを通して子女の立場に行かなくてはならないのが復帰の道なのです。



言ってみれば、アベル・カインという立場はいつも決定していないわけです。例えば伝道に行く時、行かなくてはならない自分の体、それは自分の霊が体を通してどこかへ行く時で、その肉体はアベルになるのです。だから、いつも心だけがアベルということにはならない。仕事によって、使命によってその関係が決まるのです。教会でいえば、経済的に責任を持った人がアベルになる時もあるし、伝道の時には説教する人がアベルになる時もあるし、要は、その仕事に誰が中心になるかという問題になるのです。家庭に帰って来ても、事の責任を持った人がアベルになるのです。ですから、その時間はそのアベルに対して謙遜に喜びながら侍って、その人を慰めなければいけないのであって、食事の時もいつでも自分が上であるという立場に立たれないわけです。その時々の仕事によって、中心となる兄弟がアベルの立場で苦労するわけです。そこに平和があるのであって、一人だけがアベルというように決まった考えをもったら、その教会は苦しみ、家庭にも苦しみが来るのです。だから、そういう考えで解決したら、各々教会生活においての自分の位置が分かると思います。そうすれば、おのずと人の位置をわかってやらなくてはいけないし、そこでも自分は自分と、自分だけの道理を通せば、それは固執になってしまって、それは従うことにならないし、忠誠にならないのです。







上記を読むとカイン・アベルにはとても深い内容があり、そのことを踏まえた上での捉え方が非常に重要だということを改めて感じます。過去を振り返ると責任者も私たちも理解が浅くそれ故に問題が生じていたことがあまりにも多かったようです。これからは皆が正しく理解を共有していけたらと願うものです。



ブログの中では埼玉サンクチュアリ教会さんが25日にアップされた『「組織」と「関係(信仰)」との違い』も大変参考になりました。ありがとうございました。






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時来たれりー完成再臨復活について

私は主人の郷里に来て住むようになってから今年で25年になりますが、最近しみじみ思うことはその地で歩む者としてもっと郷土史を学ぶべきであったということです。ある程度調べてはいましたがとても中途半端で断片的なものでした。今になって改めて知ることが多く不勉強だったことを反省するものです。


また一方においては三代王権が立たれた今であるからこそ明かされること、気づかされることがあるということも感じています。そしてサンクチュアリの方々と授受したり、その方がブログなどで発信されることを通して、今までの断片的であった知識や体験が時を経て繋がって新たな気づきを与えられることが本当に多く驚きを感じると共に、感謝と感激に絶えない思いを持っています。



地方の教会でささやかな責任分担をいただいて歩んで来ましたが、約25年の間に派遣された責任者が何と11人変わりました。その間実にいろいろなことがありましたが、紆余曲折を経てその教会は一昨年なくなり中央の教会に所属する一つの基台になっています。なくなった直接の原因は人が激減して牧会者を置けなくなったからだと思いますが、そこに至るまでの草創期からの小さい教会の歩みにもその地の歴史が深く関わっていたということを、改めてしみじみと感じています。そして今その地から新しい芽が出ています。三代王権に繋がった小さな群れが霊界の協助を受けながら立ち上がっているのです。



その中の重要な一人の方は今他県在住ですが、実は私がいた教会は当初その方の自宅から出発したのです。つまり教会が作られる以前の草創期の方です。その方は現在毎月何度も現在お住いの居住地と出身地のこちらを行ったり来たりしながら伝道活動に精誠を尽くしておられます。これまでのブログ「あきらめない神様」「再出発の同志達」などで書いた方々の復帰もこの方の力強い協助があればこそできたことだと思っています。



大変な精誠を尽くして生きてこられながらも非情な時代の波の中で犠牲になられ、長い間歴史の片隅で忘れられていた郷土の方々、中でも神様、イエス様を慕いながら亡くなった方々が210代解怨祝福を受けられ再臨復活して私たちに協助してくれていることを実感することが起きて来ています。様々な体験を通して以下のみ言の偉大さを改めて実感するものです。




🔵完成再臨復活



新約時代に、地上でイエスを信じて楽園に行った生命体級の霊人たちは、メシヤが再臨されたのち、全部地上に再臨するようになる。その霊人たちは、地上の聖徒たちをして、再臨されたイエスを信奉して生霊体級の霊人体を完成するように協助することによって、彼らも同様な恵沢を受けて、生霊体を完成するようになるのである。そして、この地上の聖徒たちが肉身を脱いで天国に入るときには、その霊人たちも彼らと共に天国に入るようになるのである。このような復活摂理を完成再臨復活摂理と称する。このような摂理において見るとき、霊人たちが地上人たちを協助することはいうまでもなく、結果的に見て、地上人たちも霊人たちの復活摂理のために協助するのだということも、我々はまた理解することができる。

ヘブル書11章39節以下に「さてこれらの人々(旧約時代の聖賢たち)はみな、信仰によってあかしされたが、約束(天国に入る許可)のものは受けなかった。神はわたしたち(地上人)のために、さらに良いもの(天国)をあらかじめ備えて下さっているので、わたしたち(地上人)をほかにしては彼ら(霊人たち)が全うされることはない」と記録されているみ言は、結局、既に説明した事実を実証したものといえる。すなわち、この節は、霊界にいるすべての霊人たちは、地上人の協助を受けずには完成できない、という原理を証したものである。マタイ福音書18章18節に記録されている「あなたがた(地上の聖徒)が地上でつなぐことは、天でも皆つながれ、あなたがたが地上で解くことは、天でもみな解かれるであろう」と言われたみ言も、結局、地上の聖徒たちが解いてやらなければ、霊人たちにつながれたものが解かれないという事実を証したのである。このように霊人たちは地上の聖徒たちに再臨して、協助してこそ復活できるようになっている。ゆえに、マタイ福音書16章19節で見るように、天国の門の鍵を、地上の聖徒たちの代表ペテロに授けて、彼をして天国の門を地上で開くようにされたのである。


( 原理講論 第5章 復活論 第2節 復活摂理(三)霊人に対する復活摂理 (2)キリスト教を信じて他界した霊人たちの再臨復活 ②完成復活摂理 より)




天のお父様と三代王権に、そして共に歩んでくださる兄弟姉妹に心より感謝申し上げます。






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