泉のほとりに

聖歌38番のように私たちの内なる力を湧きたたせ御国を目指していきましょう。共に泉のほとりに集いましょう。導かれるままに綴っていきたいと思います。

信仰人生の出発の原点

この度の姜賢実先生のことでは、多くの方が感動の涙を禁じることができなかったことと思います。私もそうでした。家庭連合の幹部、公職者の方々の状況に関する情報に接したり、実際に家庭連合の食口に働きかけたりしながら、あまりにも心痛い思いをすることが続いていたのですが、姜先生の行動やメッセージ、証には清冽な泉で心を洗われるような深い感動の恩恵をいただきました。そして若き日にお父様にボンネッコルで出会われてから65年間、変わらぬ信仰を持ち続けて来られたお姿に希望、勇気を与えられると共に自らも心を正される思いがいたしました。


誰しも信仰人生における出発の原点、というものがあるかと思います。人生の最後までその原点を失わず、最初と最後が違ってしまった、ということがないように生きていきたいと常々思っていますが

私は今50代後半です。この先何年生きるかはわかりませんし、長く生きられたとして80、90歳という年齢になった時の自分がどのような状態になっているかはわかりません。しかしこの先いかなることがあったとしても、姜先生のように変わらぬ信仰と心情を神様とお父様に捧げていけることを目標として心して歩んで生きたいと思うのです。


私は献身して3日後の朝にお父様の夢を見ました。夏の沖縄で前線を歩んでいた頃のことです。その夢の中で私は天国の境地と地獄に落ちていく時の恐怖を体験しました。あまりにも生々しい夢でした。

献身3日目にして心情を落とし、そのことが情けなく申し訳ない思いで祈りを捧げて床につき、朝方に見た夢です。小さく弱々しい者のことも知ってくださり、心配してくださるお父様であることを知って涙しました。そしてお父様と共にあれば天国、離れれば地獄であることを教えられた夢でした。

また、たとえ地獄に落ちゆく時でも、渾身の力でお父様を求めれば、引き上げてくださることを知りました。



私はその当時、沖縄の地で見たその夢を『私のベテル』として生きていこうと思いました。その時から28年経ちました。これから先何があるかわかりませんが、私のベテルを、信仰人生の出発の原点を見失わずに歩んで生きたいと、そういう決意で2016年を終え、2017年を迎えていきたいと思います。





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カトリックと家庭連合の類似点

かなり前からなのですが、カトリックと今の家庭連合に類似点を感じることが多くあります。


もう30年近く前、学生時代の友人を伝道したいと思い交流してた時のことです。彼女は母方がカトリック、父方が神道、という背景を持った人でしたが、ある時私にカトリックの祈祷文を見せてくれました。その中に『…偉大なる洗礼ヨハネ、御母処女マリア……」というくだりがあったのです。私はとても複雑な気持ちになりました。原理で洗礼ヨハネやマリアのことを学んでいたからです。洗礼ヨハネの失敗、イエス様の出生の秘密……それはお父様が解明されるまでは誰も知ることができなかった聖書の奥義だったわけですが、カトリックの信者の方々は今に至るまで長い歴史を通じてこのような祈祷文を唱えながら信仰をして来られたんだ…と。


また南米に宣教に行った時もカトリックの人々が本当にマリア信仰であるということを実感しました。サンタマリアというお祭りの時には各家庭にマリア像の祭壇を築き華やかに飾ってお祝いします。

長崎や平戸に旅行した時もカトリックのマリア信仰が本当に強く深いことを感じました。イエス様以上にマリアを慕っているように感じられるほどです。

宣教国に滞在中お父様が「マリアは失敗した」ということを公の場で語られ南米の新聞に掲載された時は大変でした。「あんた達はマリア様のことを悪く言ってるんだね!」と睨まれたり、それまで好意的だった人から否定を受けたり、ひどい時は石をぶつけられた姉妹もいました。



家庭連合では、段々とお母様信仰になってきています。いつの間にかキリスト教2000年歴史は再臨メシアの独生女を待ち望んできた、ということになっています。またお父様は原罪を持って生まれられ、お母様は胎中から血統転換された、となってしまいました。これは真実とは到底思えません。



他にも構造的な類似点が見られます。カトリックはバチカンのローマ法皇を頂点とする中央集権的な階級組織になっていますが、現家庭連合も名前は家庭連合ですが実質は以前と変わらないピラミッド型の組織になっています。


最近家庭連合で区域長をしている姉妹と話してて驚いたことがあります。婦人達の復興のためにカラオケをしたいと基台長に話したところ「婦人部長の許可がいるのでお話ししてみます」と言われ、婦人部長は「勝利もしてないのに何言ってるの。ダメです。」と言われて結局できなかった、というのです。私は「いつまでそんなことやってるの!おかしいよ!」と言いましたが、かっての私もそういう中でやってたなあ、そういう世界だったなあ、と改めて思いました。


今の家庭連合はお父様の聖典、伝統を削除、改竄、冒涜し、独生女神学を掲げ、原理すらも歪めてしまっていますが、この先どうなっていくのでしょうか。それがおかしい、間違っている、と気づいた人は離れていくでしょうが、それを正しいと信じている人々はどうなるのでしょうか。真実ではないことを信じながら存続していくのでしょうか。とても心配で心が痛みます。



亨進様が説教の中で女神信仰について語られていますが、目から鱗の内容でした。宗教を深く学ばれているのでその知識、洞察力は驚くばかりです。それは、歴史的、文化的、政治的な膨大な内容とも繋がりサタンがいかに巧妙に人々を惑わしていくかがわかります。


今は黙示録にあるような最後の闘いの時であるということを痛感します。神様とサタンの闘い、心情文化とサタン文化の闘い、偽りのグローバリズムと真のナショナリズムの闘い、真の神学と偽りの神学の闘い、キリストと偽キリストの闘い……



アメリカでは福音派プロテスタントが立ち上がっています。とても希望的です。私達も真の神様、お父様、亨進二代王様、三代王権にしっかり繋がり、この闘いの本質をよく見極めながら歩んでいきたいものです。





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良心作用の麻痺によるみ言と実体の乖離

ここ数年間の間、家庭連合(旧統一教会)の責任者、幹部と言われる人達の信じられない姿を知り驚きを禁じ得ませんでした。それまでの私は、長年に渡り基本的に本部や責任者を信じていましたので、最初にそのことを知った時のことははっきりと覚えています。


数年前のことですが、ある先輩家庭の方、長年責任者をしてこられた方に質問をしたのです。「○○○総会長は何故突然辞められたんですか?」と。するとこう答えられたのです。「えっ!あなた知らなかったの? あの人は食口の献金で家を建てたりしてたんだよ。それが発覚して辞めることになったんだ。えーっ、あなた知らなかったんだ。みんな知ってることだよ。」


率直に教えてくださったわけですが、私は心底びっくりしました。日本の総会長ともあろう方にそのようなことがあるなんて、当時の私は夢にも思ったことがなかったのです。そういう位置にある方は立派な信仰者、人格者であると思っていました。また同時にそのようなショッキングなことを、深刻さもなく事もなげに屈託なく話されることに対しても違和感を感じ一瞬頭が混乱しました。


その後にそのようなことは氷山の一角であるということを知るようになりましたが、責任者、指導者と言われる方達、原理を知り、講義や講話をされ、信仰指導もする方達、公金問題が天法違反であると当然わかっている方達がどうしてそのようなことができるのか、不思議でたまりませんでした。


公金問題だけではありません。お父様が遺言と言われた聖典や伝統が毀損されていることに対し、、また原理が歪められていることに対し、大先輩の幹部、責任者、講師の方々は何も感じないのだろうか、痛みや義憤を感じないのだろうか、と不思議に感じてきました。私のようなものでもおかしいと感じるのですから、原理を深く学んできた方々がわからないはずはないと思うのです。中には本当にそれが善だと信じ切ってる方もいるのでしょうか。それこそとても不思議な気がします。


再臨主、メシアである真のお父様と出会い、原理を最高の真理と信じて、苦労の道を先駆けて歩んで来られた方々がどうしてしまわれたのでしょうか。統一勇士はどこに行ってしまったのでしょうか。

不正にも不義にも沈黙して、長い物に巻かれて、権威に屈して……霊界に行かれた時に後悔はないでしょうか。


既に癌で聖和されましたが、ある先輩家庭のお姉さんの言葉を思い出します。20数年前病気にもかかわらずアラスカ修練会に行かれました。心配する方達に「私はお父様のそばで倒れて死ぬなら本望なのよ」と言われました。そのような生き方を最後まで貫かれました。

また、あるお姉さんは保険に入るべきか否か、と質問する食口に対し、「それはあなたが自分で自由に決めたらいいのよ。教会があれこれ言うことではないです。私自身はこの道を行って最後にのたれ死にしてもいいと思ってるけど…」と語っておられたのを思い出します。その方は今サンクチュアリで献身的に歩んでおられます。



原理講論に良心作用について次のように書かれています。



「古今東西を問わず、いくら悪い人間であっても、正しいことのために生きようとするその良心の力だけは、はっきりとその内部で作用している。このような力は、だれも遮ることができないものであって、自分でも知らない間に強力な作用をなすものであるから、悪を行う時には、直ちに良心の呵責を受けるようになるのである。もしも、堕落人間にこのような良心の作用がないとすれば、神の復帰摂理は不可能である。では、このような良心作用の力はいかにして生じるのであろうか。あらゆる力が授受作用によってのみ生じることができるのだとすれば、良心もやはり独自的にその作用の力を起こすことはできない。すなわち、良心もまた、ある主体に対する対象として立ち、その主体と相対基準を造成して授受作用をするからこそ、その力が発揮されるのである。我々はこの良心の主体を神を呼ぶのである。」


続いて次のように書かれています。


「堕落というのは、人間と神との授受の関係が切れることによって一体となれず、サタンと授受の関係を結び、それと一体となったことを意味する。イエスは神と完全な授受の関係を結んで一体となられた、ただ一人のひとり子として来られたお方である。したがって、堕落した人間が、イエスと完全なる授受の関係を結んで一体となれば、創造本性を復帰して、神と授受作用をすることによって、神と一体となることができるのである。それゆえに、イエスは堕落人間の仲保となられると同時に、道であり、真理であり、また命でもあるのである。したがって、イエスは命をささげ、愛と犠牲によって、すべてのものを与えるために来られたお方であるから、だれでも彼に信仰をささげる者は滅びることのない永遠の命を得るのである(ヨハネ3・16)」


〈 第1章 創造原理 第2節 万有原力と授受作用および四位基台 (2)授受作用 より)





今日のタイトルにした『良心作用の麻痺によるみ言と実体の乖離』とは私たちすべてが地上生活における数多の試練の中で最後の瞬間まで警戒していかなければならないことではないかと思います。


統一の群れは今混乱の中にありますが、一人一人がもう一度出発時の動機と心情に立ち返り、メシアであるお父様をしっかり掴んで最後まで歩んでいきたいものです。





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