泉のほとりに

聖歌38番のように私たちの内なる力を湧きたたせ御国を目指していきましょう。共に泉のほとりに集いましょう。導かれるままに綴っていきたいと思います。

内省と模索の時

2015年になって、それまでの教会から所属が変わり、30年近くの教会生活で初めて責任分担というものがなくなる、一信徒として歩む、という状態を体験しました。

関連団体での役員とささやかではありますがボランティア活動、また今までなかなか時間を割けなかった副業、家族の介護、主婦業、とやることは沢山ありました。しかし今までの責任分担がなくなったということは、私にとって時間的にも肉体的、精神的にも実に大きな変化でありました。そして何よりも大きかったのは意識の変化ではなかったかと思います。


長い教会生活の中で様々な責任分担をいただいて歩むということは、私にとっては天の訓練であり、心情復帰の場であり、沢山の恩恵をいただいてきました。沢山の神体験もさせていただき、多くの信仰の友、共に苦労した同志のような大切な姉妹も得ることができました。私はそのような中で得ることのできた大切な思い出、何よりも神様やお父様との出会い、築かせていただいた心情の因縁を宝として生きてきました。


しかし、毎月毎月の教会そして区域の目標に頭を悩ませ、指示によって動くという生活からある意味 “解放 ” され、いろんなことを自ら主体的に自由に決められる状態になっていった時、私は今まで気がつかなかったいろんなことに気づかされていきました。

それは、今まで終わりなく自転車操業のように歩んでた状態から解き放たれて、“内省” と言うものを真実にできるような時を持つことができるようになった、そういうことではなかったかと思います。


過去をじっくりと振り返ってみて改めて気づかされました。私は神体験したり、心情復帰したり、お父様の夢を見たり、そのような貴重な体験を大切に心の奥深くに宝としてしまって、“こころの宝箱” とひそかに自分で名付けていたのですが、その中にあるものは全て過去のものであった、と。

特に2000年代後半以降は、そのような麗しい体験は本当になくなって、むしろ心がささくれてしまうようなことがあまりにも多かったと‥‥特にカインアベルと言うような関係に置いて心情復帰するようなことはほとんどなく、幻滅や諦めの繰り返しであったと‥‥そしてそのような状態であったとしても姉妹たちと慰め合い励まし合いながら “義務感・使命感” で歩んできた、それは生き生きとした教会生活とは程遠いものであったけれど、またそのことに本心では気づいていたけれど、習慣性から抜け出せずそのような歩みを何年も続けてきたんだと‥‥


つまりはいつの間にか惰性的信仰に陥っていたのではないか、と過去の自分を反省するようになりました。お父様は “引っ張られて歩む群れになってはいけない ” と語られていたけれど組織、という枠組みの中で、そして自分自身でいつの間にか作りあげてきた “こうあらねばならない ” という意識の中で天一国主人、祝福中心家庭とは名ばかりの意識と歩みではなかったか、と思うようになったのです。


それからの私はよく過去を振り返り内省するようになりました。家族に対しても申し訳なかった、と思うことがいろいろありました。自然をよく見るようになりました。それまではそのような余裕もない情けない自分であったと気づかされました。

そしてネットでは亨進様の説教やいろんな情報に注目していきました。

そのようなことをしながら “これからどのようにしていくか ”ということを模索する、神様がくださった貴い期間であったかと思います。



今日は、この辺で。




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