泉のほとりに

聖歌38番のように私たちの内なる力を湧きたたせ御国を目指していきましょう。共に泉のほとりに集いましょう。導かれるままに綴っていきたいと思います。

本質と変質

‘ 本質と変質 ’ …抽象的なタイトルになってしまいましたが、最近この言葉が頭に浮かびます。

サンクチュアリに来て嬉しいことの一つに本質的な方との出会いがあります。個性・性格も年齢や信仰歴もそれぞれに違いますが、「ああ、この方は本質的な方だなあ」「百戦錬磨であられながらこのような純粋な信仰を持ち続けておられるんだなあ」としみじみ思う方が多いのです。



本来統一食口の価値観は世の中の外的な価値観(学歴、地位、名誉、財産、権力、etc.)とは違うものだと思ってきたのですが、いつの頃からか、教会の中にあってもそのような価値観を強く持っておられる方がいることに気づくようになりました。そしてそれは○○長、と名がつく方と接する時に感じることが結構多かったように思います。そのような時、私は意外に思うと共に不思議な気がしました。原理を聞き全てを捧げて献身してこられた方なのに、今なおこのような価値観を持っておられるんだ、どうしてだろう。昔の価値観が根強く残っているのか、それとも少しずつ変質してこられたのか…と。



いろいろ考えてみるとそれはやはりピラミッド型の組織や激しい献金摂理、実績中心の体制と関係が深いのだろうな、と思わされます。お父様の指示どおりに還故郷、家庭教会摂理に取り組んでいれば、自ら僕の僕として真の愛で尽くさなければいけないので、だいぶ違っていたのではないかと思います。組織中心の歩みの中でアベル・カインが上司と部下のようになり、権威主義、実績至上主義になり、伝道の目的も少しずつずらされていくことが多かったのではないでしょうか。



私はカン・ヒョンシルお母様には一度もお会いしたことがありませんが、30年近く前所属教区に来られたことを記憶しています。集会には参加出来ず後で講話のビデオを見たのですが、その中で語られた一言にとても感動し、その言葉は私の信仰生活において指標となり今日に至っています。その言葉は「皆さん、人に近づく時にその人が教会にとって利益になるとか、そんな思いで決して近づかないでください、その方の生命を訪ねてください。」というものでした。



それは私がまだ20代の頃のことです。信仰の初期にこのような本質的なみ言を受け、心に刻みつけることができたのは幸せなことでした。その後の教会生活でこのみ言に反するような出来事に出会った時に本心が「それは、違う!」と反応し、この言葉を思い出していました。



今私たちは信じられないような事態を目の当たりにしています。私自身ここ数年の間 ○○長、○○講師と言われる方たちの驚くような言動・行動に直接・間接的に接して来ました。それは「ダブル・スタンダード」「何でもあり」また「毒食わば皿まで」というような言葉で表現できますが、一言で言うならば信仰の ‘ 変質 ’ の現れではないかと感じます。



私自身も人のことは批判できる立場ではありません。振り返れば2,000年代の後半位から、自分の信仰が習慣的、惰性的、形式的になっていたことを感じます。私たちは常にみ言に照らし合わせながら自分の信仰をチェックし刷新していくことが必要だと痛感する次第です。



信仰の初期にある講師の方が語っておられたことを思い出します。「サタンはね、私たちがゴールを目指して走っているのを上から眺めながら、‘ こいつはどうやって引っ掛けてやろうか ’ と虎視眈々と狙っているんですよ。カイン・アベルか、公金か、それともアダム・エバかってね。私たちの弱いところを知ってていろんな罠をかけるんです。最後まで歩みきれないように。気をつけましょう。」



教会の悪の首謀者においてはその罠は既得権益、追随する方においては生活基盤ということなのでしょうか。本当に心痛い思いがします。



天の導きによって三代王権に繋がらせていただいた自分ですが、この道は最後まで何があるかわかりません。サタンの罠にかからないよう謙虚に、心を引き締めて歩んでいきたいと思うものです。


人は何度でも過ちを犯します。そしてすぐにお互いを裁いたりします。私もそうです。でも神様は違うということを次の聖句で改めて感じています。




「ある人々がおそいと思っているように、主は約束の実行をおそくしておられるのではない。ただ、ひとりも滅びることがなく、すべての者が悔い改めに至ることを望み、あなたがたに対してながく忍耐しておられるのである。」( ペテロの第2の手紙3:9 )





天のお父様と三代王権に心より感謝申し上げます。







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