泉のほとりに

聖歌38番のように私たちの内なる力を湧きたたせ御国を目指していきましょう。共に泉のほとりに集いましょう。導かれるままに綴っていきたいと思います。

常に喜び、体恤的な感度を広げよ

🔵 真のお父様のみ言


常に喜び、体恤的な感度を広げよ



そして、皆さんが朝に家を出て、夕方に戻るときには、絶対にマイナスとなって帰ってきてはいけないのです。帰ってくる時は、必ず朝に出ていった時よりもうれしい立場、すなわちプラスとなった立場に立ちなさい。そのようにすれば家庭内の不和が起こりません。もし、マイナスとなって帰ってくれば、自分の妻や息子、娘にもマイナスの感じを与えるようになります。それは、罪です。善を追求していかなければならない立場から見るとき、このような立場に立つことは、善を傷つける立場になるので、これは神様の前に喜びとなれず、悲しみとなります。

したがって、家を出て戻ってくる時は、どんなに困難な立場に立っていたとしても、必ずその困難を蕩減しておいて、喜びの条件をもって帰ってこなければなりません。もし、職場で悔しく気分の悪いことがあったとしても、それを家に来て解消しようとしてはいけません。その場で解消するか、でなければ別のことに置き換えて、「それ以上の喜びの条件で蕩減した」というようにしてから、家に入っていかなければなりません。

そうするために、それを補強できる間接的な、自分だけの秘法をもちなさい。道を歩きながら、わざと電信柱に頭をぶつけて、その痛みによってでも蕩減の条件を立てなさい。それをもって蕩減を受けたという、悔い改めの祈祷をするのです。そうでなければ、子供たちにあげるあめ玉でも買って、子供たちが喜ぶ姿を思い描き、その喜びをもって家に入っていくのです。あるいは、歌が好きな人であれば、昔、自分が好きだった春の歌や秋の歌を歌い、きょうの悲しい感情を越えて昔のうれしかった感情を呼び戻し、それを中心として帰っていきなさい。

家に入ってくれば、妻に対しても、息子、娘に対しても、そのような喜びの表情と喜びの心を授受するのです。そうなれば、職場で打撃を受けた悲しみを完全に越えることができるのです。滅びるしか なかった環境を食い止めることができるのです。皆さんは一日の全体を中心として、このような生活態度をもたなければなりません。これが一つの作戦となるのです。一日を何気なく生きてはいけません。

どんなことに対しても同じです。山なら山を見るとき、その山を中心として神様の創造性に接する感じ、美しいとか神秘的だという感じを通して、神様が私という一つの価値をこのように高貴にするために、あんなにも素晴らしい相対的万物を造られたのだなあと感じ、喜んで、うれしく思いながら神様の前に賛美を返すようになるとき、そこから衝撃的な刺激を感じるのです。そのような立場で完全に授受すれば、一つになるので酔いしれるのです。そして、その中から離れたくなくなります。その中で寝転びたいと思い、幼子のような心になり、また父母と同じ心を感じられるようになるのです。そのような感情は、何でもない自然を見る中でも感じられます。あるいは、流れていく水を見ながらでも、いくらでも思索にふけることができるのです。

このような体恤的な感度を高めていくようになれば、神様が創造しながら感じられた喜びまでも、共鳴して入ってくるようになるのです。それは、何の考えもなく祈祷するよりも良いのです。ですから、皆さんが、生活圏内において、このような生活を中心として体恤的な感度をどのように培養していくのかが問題です。それゆえに、私が相手に接するとき、どのような表情で接しなければならないかを常に考えなくてはなりません。そのように研究していけば、自分がある表情をしたとき、「相手に良い印象を与えた。だから私はどのようにしていかなければならない」と、分かるようになるのです。



( 「後天時代の生活信仰」 第4章 体恤信仰と侍る生活 第1節 体恤信仰の重要性 より )





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