泉のほとりに

聖歌38番のように私たちの内なる力を湧きたたせ御国を目指していきましょう。共に泉のほとりに集いましょう。導かれるままに綴っていきたいと思います。

どのように物に接すべきか

🔵 真のお父様のみ言


どのように物に接すべきか



それでは、対物関係において、どのように天化(注:神様を中心として行動すること。あるいは神様を中心としたものにすること)させるのでしょうか。つまり、その物に対して、堕落した私として接するのではなく、神様が主体となって対したという立場をどのように立てるのかというのです。対人関係においても、私自身として接するのではなく、どのように神様と共に接するのか、また、言葉を語るにおいても、私独りで言葉を語るのではなく、どのように天の言葉を語るのか、これが問題です。その語ったことは、言葉だけで残すのではなく、必ず行動が伴わなければなりません。これが私たちの生活圏内において関係している内容なのです。

私たちが物に接するにおいては職場生活が展開し、人に接するにおいては人倫関係が展開します。言い換えれば、道徳関係が展開するのです。そして、言葉を話す関係においては、行動問題が起こってきます。これが、私たちが生活圏内で関係を結んでいる与件です。

ですから、物に接するにおいては、原則的な法度に背いてはならず、人に接するにおいても法度に背いてはならず、言葉を語るにおいても法度に背いてはならないのです。物に対しても、人に対しても同じです。もちろん、人を中心として対物関係が成立するのですが、このような立場で関係を結んでいることを知らなければなりません。

それでは、信仰者として物に接するとき、どのように対さなければならないのでしょうか。それは、どこまでも公的に対さなければなりません。公的に接するとき、それが十の価値をもっているとすれば、十の価値だけで見るのではなく、それをどのように千万の価値として見るか、この価値をどのようにより大きく見るかということが重要です。たとえ、その物の価値が微々たる物であっても、そこに神様が介在していると考えれば、その価値を千万倍に高めることができるのです。私の愛している物に神様が関係しているとき、その物の価値は無限な比重をもって現れるのです。

そのような心で物に接するようになれば、その物が実に慕わしく感じられます。皆さんの生活圏内で感じることや、皆さんの心の世界で感じることの中に、そのような感応が伝わってくるようになるのです。そのような心をもって物事に接すれば、その結果は、自分一人が期待していたものよりもっと立体的な価値の内容をもつようになります。

一つの事や物に対したことにより、自分が環境的に大きな価値の結果を感じるようになったという事実は、それによって自分がより高い霊的な内的価値をもてる位置に立ったということです。そのようにすれば、事を成したのちにも感謝し得るのです。どんなに大変なことであっても、私がしている苦労よりも、天的に何百倍、何千倍の価値的な結果が現れるという、そのような価値を感じながら行動する人がいるとすれば、それがどんなに難しいとしても、難しいそのことがかえって感謝の対象となるのです。

自分一人を置いてみても、対人関係において、ある難しいことに追い込まれて被害を受けたり、言葉にできないような苦役を克服しなければならない受難の道に入り込んだとしても、その受難の道を自分一人で行くと思ってはいけないのです。その受難の道を無限な価値の中心である神様と共に歩んでいると考えるのです。そして、神様が共にいらっしゃる受難の道の前に自分が同参したという事実が、どれほど大きな価値であるかを感じ、その苦痛の代価よりも感謝の代価のほうがより大きいと感じるようになるときは、どんな苦痛の道も感謝の道となり、むしろ神様の前に栄光の道となり得るのです。

ですから、物に対するときも、何の考えももたずに対してはいけません。物は、プラスでなければマイナスを私にもたらすようになると思わなければなりません。つまり、私にとって福になるか、そうでなければ災いになるのです。ですから、現在十の立場から私がその物に対するとき、十一の価値になるのか九の価値になるのか、すなわち、マイナスをもたらすのかプラスをもたらすのかを考えて、マイナスになる立場を避けてプラスになり得る立場をどのように立てるか、ということに対して努力しなければならないのです。



( 「後天時代の生活信仰」第4章 体恤信仰と侍る生活 第1節 体恤信仰の重要性 より )






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