審判の意味
🔵 真のお父様のみ言
歴史上に終末があるという話は、天を中心として見るとき、幸せな話です。審判という言葉は、悪い言葉ではなく、福音です。悲しみの立場から数千年間呻吟してきた歴史的な恨を解き得る、怨恨の心をもった息子、娘の恨を解いてあげられる一日にならなければならないので、そのような審判の一日が来なければなりません。 ( 1972・11・5 )
今日の人類は、全て鉄条網圏内に捕らわれています。もし、この東西南北にいる警備兵を全て倒し、鉄条網を全て撤去させられれば、人間は生き返ります。これを撤去させるための行使とは何かというと、大審判です。撤去しておいて、神様の一族は神様がもっていくのです。
審判とは、全てを火あぶりにすることではありません。今日のキリスト教が言うような、火あぶりにして殺すのではありません。殺すのなら、既に全て殺してしまったでしょう。鉄条網を断ち切って、行きたい所に行きなさいということです。 ( 1962・10・28 )
審判とは何かというと、清算です。清算して手本となり得るものをよく収拾し、新しい国家編成時代の偉業として、残しておかなければなりません。 ( 1988・10・15)
終末には審判をします。「審判」という文字の意味を調べてみると、「審らか(つまびらか)に調べて判断する」という意味です。正しくないものを打つということです。 ( 1963・3・16 )
本来、神様の審判というものは、創造の当時にはありませんでした。堕落のために生じたものです。
言い換えれば、サタンによって生じたものです。神様が愛する息子、娘を打つようなことを、神様はできません。赦してあげてサタンから抜け出すことができるならば、その赦しの道をいくらでも選ぶのです。 ( 1976・1・1 )
(「 天運と聖霊の宿る八大教材・教本 」 第3章 天一国入籍 第1節 審判と祝福 (2)審判の意味 より)
これまで審判について漠然としたイメージしかありませんでしたが、お父様はこのことについて
以前から多くのみ言を語っておられたことを知りました。「鉄条網を断ち切って、行きたい所に行きなさい」というのは、正に今のことだと思います。今こそ各自が神様に真剣に祈り求め自らの良心に尋ねて、自由と責任において正しい選択をなすべき時なのでしょう。この混沌とした混乱の時代にあって、一人一人が人任せにするのではなく、これまでの習慣に沿って曖昧にするのではなく、深刻真剣に求めなければならない、目覚めなければならない、大変な時を迎えているのだと感じます。
まだ眠りの中にある、あるいは迷いと葛藤の中にある全ての兄弟姉妹に、天の導きがありますよう心よりお祈りいたします。
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