泉のほとりに

聖歌38番のように私たちの内なる力を湧きたたせ御国を目指していきましょう。共に泉のほとりに集いましょう。導かれるままに綴っていきたいと思います。

体恤信仰を開発する生活

🔵 真のお父様のみ言


体恤信仰を開発する生活


先生は、皆さんが笑いながら話をするとき、すぐに感じが伝わってきます。その笑いが神様の前にプラスとなる笑いなのか、マイナスとなる笑いなのかという感じが伝わってくるのです。皆さんも、そうなれるように、習慣化して開発していかなければなりません。ですから、自分を中心として成される周囲のすべての要件には、無意味なものは一つもありません。すべてのことが、私を開発させ、発展させるための一つの教材として登場するのです。そのような生活態度が必要です。ゆえに、一人だからといって自分勝手にはできないのです。

このような生活態度を中心として生活するようになれば、初めて会う人でも、面識のある人でも、誰であってもいい加減に接することはできないのです。初めて会う人だから適当に扱えばいいだろうと、このようにしてはいけません。その人がどんな人なのか分からないからです。したがって、このような心情的基準を中心として、体恤的な環境を開発するようにしなければなりません。そのように、すべてのことにおいて、常に効果的な価値を発見して喜びを感じたとすれば、その人の信仰生活は、観念的なものではなく実質的なものであり、神様と共に生きる信仰生活なのです。

そのような生活をする人は、どんなに困難な道を歩んだとしても疲れません。もし、死の道を行くとしても、その死がみ旨の前に妥当な死か、そうでないかをすぐに知ることができるのです。苦痛を受け、悔しい目に遭うことも、神様が私を蕩減させるためにすることなのか、マイナスにさせるためにすることなのかが、すぐに分かるのです。

どんなにつらい道を行くとしても、それが体恤的な感情に接しながら行く道であるならば、なぜか心強く、希望がわき出てくるのです。反対する喚声が高くなればなるほど、それが衝撃となり、刺激となって、私自体の中心が折れてしまうのではなく、それを良い機会にして爆発的な力が作用するようになり、善意の闘争の力がわき上がってくるのです。このようなことを見れば、私の行く道が、神様が共にいらっしゃる道なのか、そうでないのかを感じ取り、見分けられなければなりません。

そうでなければ、生活圏内で堕落が起き、失敗が起き、神様の前に裏切りが起こるようになるのです。これは、眠っている時に起こるのではありません。私たちが目を開けて活動しながら接するすべての相対的要件を中心として、私が発展することもあり、後退することもあり得るのです。このような関係になっているので、この関係をどのように良く調整して天化された結果をもたらすかを、常に研究しなければなりません。


物に対するときもそうですが、人に対するときでもそうです。人を見たとき、「あの人はどのような人だ」ということを分からなければなりません。その人の性質によって、すべて違います。自分が人に対するとき、相手の人が自分よりも心情基準が低いときは、自分の基準を低く調整して、相手に対さなければなりません。そうでなければ自分が打撃を受けます。

ですから、印象でその人がどのような人なのかを、すぐに知らなければなりません。第一印象でどのような感じがするのか、心のアンテナを通して、この丸い心でどのような感じを受けるのか、自分の先入観でなく、公正な立場で、はかりのような心でどのような感じが来るのかを知らなければなりません。自分が中心になるのではなく、その感じ取ったことを中心として、神様を思いつつ進んでいかなければなりません。主体の前に私は対象の立場となるので、良い結果を基準として発展させたいのが主体の願いであり、相対である私たち人間の願いになるのです。

したがって、私の個体が打診した結果を中心として見るのではなく、さっと見ながら心に照らして見てみるのです。そのようにすれば、最初の感じがすぐに来るのです。最初のうちは、よく分かりません。ですから、それを発展させなければならないのです。そのようにすれば、「ああ、あの人は良い人だ」と分かるようになります。皆さんがそのような度数をだんだんと高めていくようになれば、一度だけぱっと見ても、心がどうで何がどうだということが、さっと伝わってくるのです。

例えば、先生が約婚してあげるときは、できる限り人の輪郭をはっきり見ないようにします。この人あの人と、さっと見回してみるのです。どのような感じを受けるのか、心のはかりでさっと比較してみるのです。この二人はどうか、合うか合わないかと思いながら見るのです。ある時は、さっと見ると二人が一つになる場合があります。二人を見ると、あっという間に一つになる感じを受けます。これは間違いなく、天によって定められたお似合いの配偶者です。

そのような感じが何パーセント的中するのか、皆さんの生活過程を分析して、結果を確認しなければなりません。私が感じることは何パーセント合っている、このような内的な因縁を、皆さんが環境圏内で結んで確認できるようにならなければなりません。そのような結果を測定できる立場に立たなくては、神様が共にいらっしゃるか、悪が共にあるのか、分析することができません。したがって、必ずこのような信仰態度が必要です。このような信仰態度を育てていけば、間違いなく体恤されていきます。そのようになれば、道を行くとき、祈祷をしなくても大丈夫です。最初の一歩を踏み出すとき、この道がどんな道か、行けば神様が喜ばれる道か、悲しまれる道かが分からなければなりません。最初に、「ああ、これは良い、悪い」と感じられるのです。悪いと感じるときは、行かないのです。これを鑑定できなくてはなりません。ですから、皆さんは、環境の中で体恤信仰を開発するために努力しなければなりません。

ですから、皆さんが人を見るときも、何気なく見てはいけないのです。誰それの正常な表情はこうだ、ということを分析しなさい。それだけでなく、誰それの正常な態度はこうだ、また、正常な声はこうだ、笑うのも、正常な笑いはこうだ、と分析してみなければなりません。



( 「後天時代の生活信仰」 第4章 体恤信仰と侍る生活 第1節 体恤信仰の重要性 より )






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