泉のほとりに

聖歌38番のように私たちの内なる力を湧きたたせ御国を目指していきましょう。共に泉のほとりに集いましょう。導かれるままに綴っていきたいと思います。

不思議な夢

2009年だったと思います。不思議な夢を見たことがあります。当時意味が全くわかりませんでした。


亨進様の夢です。お父様やお母様の夢は見たことがありましたが、子女様の夢を見るのは初めてのこ


とでした。実体でお会いしたこともありませんでした。


私の前2メートル位の所に立たれてて、黙ってじっとこちらを見ておられましたが、その目を見て私


は驚愕しました。びっくり、とかいう感じではありません。驚愕、という言葉がふさわしいと思いま


す。目が奥まで澄み切ってて透明だったのです。澄んだ目、と言う表現では足りません。奥の奥まで


透明で底知れぬ深さを感じました。夢の中で “ こんな目を持った方を未だかって見たことがない ”と思


いながら立ち尽くしていました。


目覚めた後でどうしてこんな夢を見たんだろう、と不思議に思いました。亨進様と言えば、「はげ頭


と苺」が好きで2回読んだこと、天宝会の会誌に掲載されてた亨進様、ヨナ様のみ言に大変感動した


ことはありました。( うちには娘が2人いて長女は小さい時大病をして重度の障害があります。これま


でブログで書いたのは次女のことです。)障害のある子女を持つ家庭に思いを寄せてくださってるこ


とに感謝の思いを持っていましたが、当時はその夢がどのような意味を持つものか、全くわかりませ


んでした。




あれから7年程になりますが、紆余曲折を経てサンクチュアリに繋がることができた今、感慨深くその


夢を思い出すこの頃です。あれは、神様からの啓示だったんだなあと思う次第です。







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もし愛がなければ

たといわたしが、人々の言葉や御使たちの言葉を語っても、もし愛がなければ、わたしは、やかまし


い鐘や騒がしい鐃鉢と同じである。たといまた、わたしに預言をする力があり、あらゆる奥義とあら


ゆる知識とに通じていても、また、山を移すほどの強い信仰があっても、もし愛がなければ、わたし


は無に等しい。たといまた、わたしが自分の全財産を人に施しても、また、自分のからだを焼かれる


ために渡しても、もし愛がなければ、いっさいは無益である。

愛は寛容であり、愛は情け深い。また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない、不作法を


しない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。不義を喜ばないで真理を喜ぶ。


そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。

愛はいつまでも絶えることがない… ( コリント人への第一の手紙 第13章 1〜8 )





大好きな聖句です。久しぶりに読んで二千年前に書かれた聖書の素晴らしさに改めて感動しました。

献身したての頃、「今後段々忙しくなって時間を取れなくなるだろうから今のうちに聖書をしっかり読んでおいたらいいですよ」と言ってくださった先輩がいました。福音書はよく読みましたが、旧約は初めから出エジプト記あたりまでで、その他はところどころを読んだ程度です。結局聖書全巻を全て読み通したことはありませんでした😢


読む物が沢山あって大変ですが、今後聖書を少しずつ読んでいきたいと思います。







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教会の父母

ちょっと前の話ですが、春から他県の学校に通ってる娘が8月に帰省したので、サンクチュアリの教会に連れて行きました。教会長ご夫妻が時間をとってくださり、2時間程お話してくださいました。面談、というような堅苦しい感じではなく、娘もリラックスして話していました。


帰り道に娘は「お母さん感じのいい所だね。また行きたい!」と言っておりました。教会とご夫妻の雰囲気に好感を持った様子でした。


昨夜LINEでやりとりしてた時に「昨日は教会に行ったよ。よかったよ。」と書くと「すごくいい雰囲気だったよね。」と返って来ました。一度切りしか行っていないのですがかなり好印象を持ったようで、今まで教会に対してそのようなことを言うのを聞いたことがないのでちょっと考えさせられました。清潔で落ち着いた感じのお部屋、教会長ご夫妻の暖かいお人柄、自然な会話の流れ、などに緊張したりすることなく話せたのがよかったんだろうな、と思いました。そして教会に少しずつ人が増えているその理由をいろいろ考えた時、‘ 教会の父母 ’という言葉が頭に浮かびました。


私の所属してた教区では長い間よく食口の間で「母がいない」と言われていました。教区の母と言えば教区長夫人でサモニムと言われる方か代表婦人部長だと思いますが、サモニムはあまり出て来られず、代表婦人部長は実務、経済部門においての責任が重く、なかなか母、という感じではなかったことが多かったように思います。私の記憶ではむしろ食口に檄を飛ばし分別するタイプの方が多かったようです。たまに心情的で食口の話を親身に聞く方がおられたしても、実績面で不足だということで人事になったりすることもあったようです。そういう訳でなかなか母の役割を果たせる方がおられなかった、という状況ではなかったかと思います。


私が所属してた教会ではわりと頻繁に教会長が代わっていましたが、振り返ってみると食口が復興していた時は、心情的で 温かく細やかな気遣いをされる夫人がおられる時だったように思います。そのように考えると勿論父の存在は重要ですが、母の存在も大きいものだと感じさせられます。


私の地域のサンクチュアリでは最初突破口を開いてくださったご家庭の夫人が献身的に動いて母のように尽くしてくださり、また陰で支えておられるご主人やご家族がおられました。そして今はまた教会長として立たれたご夫妻が私たちを指導し育んでくださるので本当にありがたいことだと思います。神様やお父様、亨進二代王様ご夫妻との関係は勿論ですが、実体で父母のように歩んでくださる方々の存在は非常に大きなものだと感じます。


そのように考えてみた時に、はたと思わされました。これから家庭教会、氏族メシヤを成していく私達においても、その勝利の秘訣は父母の心情に立って歩めるか、ということなんだと。当たり前のようなことなのですが、改めて実感させられました。‘ 父母の心情、僕の体 ’ という言葉は昔から知っていたわけですが、どれだけ実践し実体化できていたかと反省することが多いです。


昔宣教地にいた頃、本当にいろんな問題があって大変な時に、国家メシヤの方から「オンマーの心情で」と言われていましたが簡単ではありませんでした。恥ずかしながらキレてしまったこともあります。後で自分の未熟さを反省しましたが……これからもきっと似たようなことがあるかもしれませんが、先輩方を見習って今からでも過去勝利できなかった心情圏を勝利できるように取り組んでいきたいと思います。


娘の一言でいろんなことを思わされた次第です。では、また。






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