泉のほとりに

聖歌38番のように私たちの内なる力を湧きたたせ御国を目指していきましょう。共に泉のほとりに集いましょう。導かれるままに綴っていきたいと思います。

善神の業と悪神の業

善神というのは、神と、神の側にいる善霊人たちと、天使を総称する言葉であり、悪神というのは、サタンと、サタンの側にいる悪霊人たちを総称する言葉である。善と悪がそうであるように、善神の業と悪神の業も、同一の形をもって出発し、ただその目的のみを異にするものなのである。

善神の業は、時間がたつにつれてその個体の平和感と正義感を増進せしめ、その肉身の健康をも向上させる。しかし悪神の業は、時間がたつにつれて不安と恐怖と利己心を増進せしめ、また健康をも害するようになる。

それゆえに、このような霊的な業は、原理がわからない人にとっては、それを見分けることが非常に困難であるが、時間が経過するに従って、その結果を見て、その内容を知ることができるのである。しかし、堕落人間は、神もサタンも、共に対応することのできる中間位置にあるので、善神が活動する環境においても、悪神の業を兼ねて行う時がある。また悪神の業も、ある期間を経過すれば、善神の業を兼ねて行う時がときたまあるから、原理を知らない立場においては、これを見分けることは難しい。今日において多くの聖職者たちが、これに対する無知から、善神の働きまでも悪神のそれと見なし、神のみ旨に反する立場に立つようになるということは、実に寒心に堪えないことといわなければならない。霊的な現象が次第に多くなる今日において、善神と悪神との業の違いを十分に理解し、これを分立することができない限り、霊人たちを指導することはできないのである。

〔 原理講論 第2章 堕落論 第4節 人間堕落の結果 (4)善神の業と悪神の業 〕



最近原理講論のこの箇所がよく頭に浮かびます。どういう時にかと言うとサンクチュアリのことを

‘ 非原理的分派集団 ’ と表現されたり、家庭連合の方から ‘ 四大聖物 ’ を勧めるハガキやチラシをもらったり、ごくたまにですが公職にある方と接した時などです。かっては、共に歩んだ兄弟姉妹、アベル(の位置にいた方)、氏族などとあまりにも認識が違ってしまい、通じなくなってしまったことに哀しみを感じながら、ふとこの箇所が浮かんでくるわけです。


また、清平のことを考えた時にもこの箇所が思われます。私もかってはできる限り通っていました。最後に行ったのは2014年でした。何となくではありますが、今思えば何かちょっとおかしいと微かに感じることがあったように思います。その後いろんなことがわかってきて行くのを止めました。沢山の恩恵を感じていましたが(特に初期の頃)、お父様が許諾されてる、という一点において信じて通っていました。お父様が警告のみ言を語られるようになった時点で既におかしくなっていたと思いますし、その前からいろんな問題を内包していたんだと感じます。そしてお父様聖和後は亨進様が語られるように機能停止している、というのが事実だと思います。


しかし、今も清平には沢山の食口が通っています。夏の大役事は聖和4周年とも重なって3万もの人が訪れたとも聞いていますが、本当に複雑な気持ちになります。そして「益々恩恵が増して証が出ている」と言う家庭連合の食口の話をサンクチュアリの方にしたところ「証を捏造したりしてるみたい。それにサタンも奇跡をおこすからね。」と言われてました。私もそれはあるだろうなと感じています。そして清平もおかしくなっている、ということをいろんな情報を聞いても信じず、通い続けている食口は上記のみ言のようにある程度の目に見える結果、現象が現れなければ、気づくことができないのかもしれない、と感じています。胸の痛いことですが…




でも一方で難しくてもできる限り伝えて行かねば、伝えて行きたいという思いも勿論あります。言える機会のある方、心情因縁のある方には一度でダメでも押したり引いたり知恵を使いながら何度も言い続けていきたいと思います。神様の役事があることを信じながら… ‘ 継続は力なり ’ ですよね☺️



それでは、また。





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