泉のほとりに

聖歌38番のように私たちの内なる力を湧きたたせ御国を目指していきましょう。共に泉のほとりに集いましょう。導かれるままに綴っていきたいと思います。

覚醒と悔い改め

教団上層部の腐敗構造を知った時は大変ショックでありましたが、真のご家庭の大変な内容を知った時はそれとは比較にならない位の衝撃を受けました。特にお母様がお父様に対して服従されず、幹部と共にお父様をないがしろにされてたということは驚きでしたが、そのことを知ってみるとお父様ご聖和後の様々な急激な変更の意味も腑に落ちるようになりました。


そしてさらにいろいろ調べてみると、そのようなことは急に起きたことではなく、はっきりはわかりませんがかなり以前からお父様がお年を召されるにつれ進んでいたことも理解できるようになりました。


私はつくづく自分は何も知らなかったんだなあと思いました。情報源が教会から発信されるものしか

なかったのである意味仕方がなかったのですが、それにしても無知だったと情けないような気持ちになりました。ブログ村でよく “脳内お花畑” とか ”思考停止”、“ビニール脳”などの言葉を目にしていましたが自分もそうだったんだなあと思い、ある意味言い得て妙だなと感心したりもしました。


と言うのは今思えば2000年後半くらいから教会の体質が変わってきたことを肌で感じることは沢山あったのです。行き過ぎた実績至上主義、間違ったカイン・アベル観、責任者によっては食口を完全主管し発言の自由もなくまるで共産主義のようだと感じたこともありました。


真のご家庭に関しても三男顕進様がいろいろあった時、教会で言われることがあまり理解できなかったのですがそのまま信じるだけだったのです。背後でどのようなことが起きていたのか私達末端食口には知る術もなかったのですが、今思えば真のご家庭で起こっていることにもっと関心を持つべきだったと思います。



いろんなことがわかってくると “私は一体今まで何をしてきたんだろう‥?” という思いが湧いてきました。それまで活動してきたことなどが虚しく感じられました。宣教に行った時などはお父様と共にみ旨を歩ませていただいてる、という実感があったのですがその後時が経つにつれ、その時々の献金摂理の中で必死で歩んできたもののいつの間にか摂理もわからなくなっていたのではないかと‥‥


私はいつも祈祷の中に2つの項目を入れていました。それは “私達の教会が愛の心情組織になりますように” と “訓読家庭教会を為せますように” の2つでしたが結局どちらもなせないままにお父様を霊界にお送りするようになってしまいました。形だけは忙しく区域長として歩んだり、関連機関でのボランティアをしたり、地域の方を訪問したりはしてきたけれど、それは自己満足ではなかったかと思うようになりました。


本来メシアの願いに動じ静ずるように歩まなくてはならない祝福家庭なのに、お父様のご事情ご心情も真のご家庭の十字架も何もわからずに、ご家庭の為に真摯な祈祷も捧げることなくかけ離れたところで、自分なりのわけのわからない歩みをなしてきたのではないかと感ずるようになったのです。


そして2006年に見たお父様の夢を思い出しました。婦人40日修から帰って来て見た夢でした。お父様がとても近い距離、私のすぐ目の前にいらっしゃるのですが、とても苦しそうにハーハーと息をされてて喘ぎながらこう言われたのです。“誰も‥‥お父様のみ言を真剣に聞いていない‥‥”と。そして当時その夢のことを深く考えなかった自分であったことをとても悔い改めさせられました。


それからの私はいつの間にか遠ざかってしまっていたお父様との距離を縮めたい思いで “不肖の娘を許してください ”と悔い改めの祈祷を捧げながら改めてお父様のみ言の訓読に取り組むようになりました。




それでは、また。




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