泉のほとりに

聖歌38番のように私たちの内なる力を湧きたたせ御国を目指していきましょう。共に泉のほとりに集いましょう。導かれるままに綴っていきたいと思います。

原則を中心として物事に対しなさい

🔵 真のお父様のみ言


原則を中心として物事に対しなさい


皆さんがそのような立場を尋ね求めていくようになれば、どんなことに対しても、既に心が知っているのです。ある事や物に対するようになるとき、それが私にプラスになるのかマイナスになるのか、すぐに分かるのです。事を成すときにおいても、私の心とみ旨が、対象と主体が授受して一体となってこそ、本来の動機、すなわち神様の創造原理に一致する四位基台圏が展開するのです。

そして、物が私と主体と対象の結果として符号するという価値を発見すれば、それは神様の創造目的の結果が得られたことになるので、神様の対象物として善の結果をもたらします。

このような善の結果を私の周囲にたくさん積んでいくほど、私自体においては、再創造の過程の場がだんだんと広がっていくのです。高まっていくのです。そのような生活をすれば、どんな物に対しても、既にその物自体から私に波長が来ます。円満な心で、邪心を断って共鳴する音叉のような心で、その物に深刻に対するようになれば、それが善いとか悪いという感情がわき出てきます。「それが私にプラスになるのか、でなければマイナスになるのか」と、このようにいつも打診して確認しなければならないのです。

もし、波長が来なければ、公的な立場から邪心を断ち、心を丸いダイヤルのようにして、さっと接したときの最初の印象や、最初に入ってくる感情を通して、これは間違いなくプラスになるという感覚をもってそれをやってみなさい。何かをするときにも、無意味な立場から行うのではなく、神様が創造されたのと同じ心で、真実な立場で行うのです。行動してみれば、よしあしの結果が必ず現れます。

そして、自分が最初に感じたことが、何パーセント的中するかを、生活の中で点検してみなければなりません。そして、生活の中で、プラスになると最初に感じたことが何パーセント的中したかを、いつも注視するのです。そのような生活態度をだんだんと習慣化させれば、十のうち五、六と、だんだんその体恤の度数が高くなっていくのが分かります。これを育てていかなければなりません。その度数を高めていかなければなりません。その反対に、悪いと感じ、良くないと感じたことが、そのとおりに良くない結果が出たとき、それはみ旨が共になかったということです。

このように、私たちの周囲にあるあらゆる物事に対するときには、無意味に対するのではなく、必ず原理原則を中心として対さなければなりません。四位基台の形態の内容を中心として、自己の体恤的な感情をどのように開発するのかという問題が、非常に重要であることを皆さんは知らなければなりません。皆さんが職場生活で物を扱うときにおいてもそうです。その会社の一員として、会社の物は公的な物であるにもかかわらず、いい加減に扱えば、その人は会社にとってマイナスとなる人です。その物は国の物であり、神様の物であると考えれば、紙一枚でもおろそかに扱うことはできません。

そのように、おろそかにしない心をもってその代価を追求し、ささいなことから大きなことに至るまで、全体を心情的な体恤の度合いを広めるための条件物と考えて、それを取り戻すために努力し、生活的な感情に連結するために努力するようになれば、生活圏内で神様が共にいらっしゃることを、忘れようとしても忘れられないのです。対すれば対するほど、私が対するそのことにおいて、神様が共にいらっしゃることを実感的に感じられるのです。

自分一人で、何の考えもなく歩き回っていては損害を受けやすいのです。その損害が現在の立場より極めて重大になるときは、そこから打撃を受け、落ちていってしまうのです。それゆえに、この体恤信仰の開発のためには、皆さんは常に、物に対していい加減に扱ってはならないのです。深刻に扱わなければなりません。これを誤ることによって、信仰の道全体が引っ掛かって倒れる、そのような条件もそこで成立するのです。

何かを行うときにも、そのようにしなければなりません。例えば、女性たちが針仕事をするとき、そこには自分の夫のための物とか、愛する人のための物とか、あるいは願わない人のための針仕事もあるかもしれませんが、同じように精誠を尽くさなければなりません。賃金をもらって針仕事をする人も同じです。お金をもらうために、あるいは利益を得るためにただ適当に仕事をしていれば、道がふさがれてしまうのです。しかし、その仕事も自分のことのように、私の愛する人の服のように真心を込めた心情で行えば、その服を着る人がそれに接するとき、「これは良いものだなあ」と言うのです。もし、体恤信仰をする人がいれば、精誠を尽くしたか尽くしていないかを、すぐに鑑定してしまうのです。すべての物事を、そのように注意して見なければなりません。



( 「後天時代の生活信仰」 第4章 体恤信仰と侍る生活 第1節 体恤信仰の重要性 より )






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