泉のほとりに

聖歌38番のように私たちの内なる力を湧きたたせ御国を目指していきましょう。共に泉のほとりに集いましょう。導かれるままに綴っていきたいと思います。

自分の心を神様の方向と一致させる

🔵 真のお父様のみ言


自分の心を神様の方向と一致させる


人には心があります。そして、心には心の門、すなわち「心門」があります。また、神様が私たち人間に対するには、「時」があります。もちろん、神様はいつでも私たちに対していらっしゃいますが私たち自身において、神様が対してくださるその方向に、心の門をどのように合わせるかが問題です。これは非常に難しい問題です。

自然を見れば、春夏秋冬があり、朝昼夕夜があるように、人の性格もみな同じではありません。ある人は春の季節に該当し、ある人は夏の季節に該当し、ある人は秋の季節に該当し、ある人は冬の季節に該当します。また、朝のような型の人、昼のような型の人、夕のような型の人、夜のような型の人がいます。顔形を見ても様々です。

このように、姿形が様々なのは、もって生まれた性質や生い立ちがみな異なるためです。身を置いている位置が、すべて異なった動機からもたらされたのが人間なので、その立っている基準に従って私たちの姿もみな異なってくるのです。ですから、春の季節に該当する人がいるかと思えば、夏の季節、秋の季節、冬の季節に該当する人がいるのです。このように、人は一つの中心を中心として、それぞれ春夏秋冬の立場に立っています。

また、春の季節と夏の季節の中間型の人や、夏の季節と秋の季節の中間型の人もいます。このように四方を見るとき、人間がそれぞれ立っている位置は、すべて異なります。ですから、人間はいつでも中心を基準にして関係を結ばなければならない立場にあるのです。この中心は絶対的な基準なので、この基準が私たちの主体的な立場とならざるを得ません。その主体を中心として、主体自身も回りますが、対象である私たち人間も、それを中心として回っていかなければならないのです。

そして、回っていくときに、神様が春の季節のような性稟で私に対されたとすれば、私もその性稟に合わせていつでも環境的に調節していき、それに相対する立場で合わせられなければなりません。そのような立場に立つようになれば、必ず体恤的な刺激を感じるようになるのです。私一人でするのではなく、必ず天運が協助し、私が望まなくても自然にその環境が成されていくのを、細胞で感じられる位置に立つのです。


( 「後天時代の生活信仰」第4章 体恤信仰と侍る生活 第1節 体恤信仰の重要性 より )






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