泉のほとりに

聖歌38番のように私たちの内なる力を湧きたたせ御国を目指していきましょう。共に泉のほとりに集いましょう。導かれるままに綴っていきたいと思います。

体恤信仰の出発

久々に記事を書きます。最近何となく気持ちが落ち着かない日々が続いていたのですが、今日久しぶりに手に取った「後天時代の生活信仰」の中に今の自分に必要なみ言を見つけることができました。

このようにしてみ言で自分の未熟な心の中を整理できるということは、本当にありがたいことだと思います。


亡き父が生前よく口にしてた言葉があります。「かたよらない心、とらわれない心、こだわらない心、広く、広く、もっと広く…」だったかと記憶しています。あるお坊さんの言葉だったと思いますが

たまに思い出しては至言だなあと感心します。それは自分が知らず知らずのうちに、心が偏ったり、囚われたり、拘ったりするからです。神様中心と思いながら、外的な事柄に影響を受けてしまった時にそのようになりがちだということを感じますが、今日そういう自分にふさわしいみ言に出会うことができたことを感謝するものです。



🔵真のお父様のみ言


体恤信仰の出発


人は、大概相対的な関係を通して何かの意識をもつようになります。もちろん、自分の心の中でも考えるのですが、ほとんどは感覚的な器官を通して刺激を受け、相対的な関係を中心として意識をもつようになっているのです。信仰生活をするにおいては、私たちの心の生活だけでなく、その心に感じられた事実をどのように相対的生活環境に適用するのかが、最も重要です。

皆さん自身が、ある信仰の基準のもとで、1年ならば1年の間、「私はこれこれこのようにするつもりだ」という計画を立てたならば、その計画が私と関係を結ぶだけでなく、神様とどのように関係を結ぶのか、そして、主体であられる神様と対象である私が一つとなることによって、その結果をこの環境にどのように実らせるのか、それが、原理的に見るときに重要なのです。

主体と対象が完全に授け受けすれば、そこには必ず新しい繁殖、すなわち第3の結果をもたらします。その第3の結果は、主体の目的だけでなく対象の目的、すなわち二重目的をもった結果として現れるのです。そこで、結果として現れたものが、それ自体で、主体と対象が因縁を結ぶ前よりも価値あるものになってこそ、より大きな刺激を感じ、より大きな喜びを感じられることを、私たちは知らなければなりません。

今月ならば今月の1ヶ月を中心として、信仰的な面で、各自がある目標を立てて実践していくとき、その目標を自分個人の目標と思ってはなりません。その目標は、常に主体と対象の共同目標であり、その結果も、常に主体と対象の共同価値の結果としてそれを追求していることを、自ら感じなくてはいけません。これは、自分がすることだとしても、それは自分一人がすることではなく、そこには必ず神様が介入しているという意味です。自分一人が動くのではなく、神様が同伴して動いているのです。

このように、神様が共に動いている事実を感じるようになるとき、ここから「体恤信仰」が出発することを、皆さんは知らなければなりません。ゆえに、日常生活においても、無意味に生活するのではなく、意識をもっているある主体がいれば、その主体と自分の考えを整列させ、自分の1日の生活過程が自分に限られた過程ではなく、主体と一つになって共になす過程だと感じられなければなりません。そのような立場に立つようになるとき、「体恤信仰」が始まることを知らなければなりません。


( 「後天時代の生活信仰」 第4章 体恤信仰と侍る生活 第1節 体恤信仰の重要性 より )






日々の生活の中で思うようにならないことがあると、すぐに外的、平面的、人間的になってしまいがちな自分ですので、このようなみ言に正されます。しばらくこの「体恤信仰」についてのみ言をアップしていきたいと思います。





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