泉のほとりに

聖歌38番のように私たちの内なる力を湧きたたせ御国を目指していきましょう。共に泉のほとりに集いましょう。導かれるままに綴っていきたいと思います。

「御言訓読と霊界動員」ーいつも神様と共に訓読会をするのです。

🔵 真のお父様のみ言



今、訓読会を一番熱心にしている人は誰でしょうか。それは神様です。その次がお父様であり、次がお母様です。先生は、み言をすべて知っているのに、なぜそれを熱心にするのでしょうか。それは、皆さんと和合するためです。皆さんが先生と和合するようにするためなのです。完全な主体の前に対象をつくってあげ、父母様がしたことを皆さんにもできるようにしてあげるためにするのです。

ですから、いつも神様と共に訓読会をするのです。皆さんが父母と共に訓読し、兄弟と共に訓読会をすることが、どれほど幸福か分かりません。それが、神様に侍って生きるということなのです。

お父様と皆さんが主体と対象となり、同じことを聞いて感じ、経験することによって一つになるのです。そのようになってこそ幸福と完成があります。そのような基盤がなければ、理想というものはあり得ません。皆さんも、霊界を知らなければなりません。それが最も重要なことです。ですから、主体の目的観と同じ水準に上がらなければならないのです。神様の目的観と一つになることができてこそ、神様が喜ばれる時に一緒に喜ぶことができるのです。

皆さんが主体ではありません。先生も主体ではありません。神様に絶対信仰、絶対愛、絶対服従することによって、家庭から世界へと、次第に対象圏が発展していくのです。

( 1998・9・8 )



先生のみ言を訓読すれば、すべて恩恵を受けるのです。訓読するみ言は、昔と同じように作用するので、今の堕落した人間も、み言を読めば恩恵を受けることができるのです。千年たっても作用します。

( 1998・5・26 )



訓読会をすれば、その時のお父様の心情に通じるので、思わず涙を流し、思わずむせび泣くのです。訓読会には、そのような力があります。電気で言えば、蓄電されるのです。誰の話でもそのようになるのではありません。先生が生きるか死ぬかの生死の境で語った言葉なので、そのようになるのです。

( 1999・4・16 )



み言を語る時、先生が勝手に語ったのではありません。説教をする時、題目を1週間前くらいに決めておき、本を見て語ったのではありません。説教の壇上に出ていく5分前まで題目はありません。多くの生命に責任をもった者として、そのような場に出て、壇上で祈祷しながら、どのような心をもったのかを考えてみてください。ですから、そのみ言で訓読会をしてみれば、皆さんの言葉とは違って、共鳴圏がついてくるのです。

( 2003・8・20 )




( 第1章 訓読会に関するみ言 第2節 訓読会の恵み ① )







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