泉のほとりに

聖歌38番のように私たちの内なる力を湧きたたせ御国を目指していきましょう。共に泉のほとりに集いましょう。導かれるままに綴っていきたいと思います。

おばあちゃんの予言「ただじゃすまんやろうて」

昨日朴大統領の罷免決定が宣告されました。60日後に大統領選が行われるということで時局は益々緊迫してきました。東アジアの情勢は深刻そのものですが、このような状況の中で何故か今は亡き主人の母のことがしきりに思い出されてなりません。



主人の母は7年前に88歳で亡くなりました。とてもいいおばあちゃんでした。働き者で料理上手で70代までは自転車に乗り畑仕事もよくしていました。丹精込めて育てた野菜や自家製の漬物や梅干しなどよくいただいていました。自転車で5分程の距離に住んでいたのですがしょっ中うちにあれこれ持って来てくれました。高菜漬けなどは樽ごともらっていました。



主人の両親は終戦直後満州から引き揚げて来たのですが、母から一度当時の話を聞いたことがあります。

日本が戦争に負けたとわかるとそれまで親切だった周囲の中国の人たちの態度が変わり怖かった…ある日中国人が襲って来る、危険だから逃げるようにと知らせがあったけど急だったのでろくに荷造りもできず、何も持ち出せず乳飲み子の長男のおむつを風呂敷に包んでそれだけ持って子供を抱いて逃げた…お父さんは軍隊の経験があったのでいく先々で飯盒でご飯を炊いて食べさせてくれ、それで何とか生き延びて青島(チンタオ)にたどり着きそこから船に乗ることができた…船中で死ぬ人もいて水葬にしていた…命からがら日本に無事に帰国できたけどその後の苦労の中で長男は病気になり死んでしまった…「母ちゃん、母ちゃん」と言いながら私の腕の中で死んだ…


50年経つなあと言いながら語ってくれたのでした。「情けない、自分の子なのに顔が思い出せない、写真の一枚でもあればよかったけど、それもない」そう言いながら涙、涙でした。引き揚げ後は朝3時に起きて仕事をしながら夫と力を合わせ、主人を含めて4人の子供を育てた母は、私が主人と祝福を受けて嫁として来た時は70歳位だったでしょうか。父は当時病気で寝たきりでしたが、私たちが家庭を持って21日目に亡くなりました。母は約10年父の介護を自宅でしていたのです。母は当時のマスコミの影響もあり最初は教会に反対でしたが、やがて黙認となり、その後賛同の入会書も書いてくれました。熱心に浄土真宗をやっていたので最後まで「宗旨替えはせん」と言い霊肉祝福に導くことはできませんでしたが、祈願礼式に参加し聖酒を飲んでもらっていました。


その母が晩年このように言ったことがあります。「私たちは若い時苦労して年取ってからいい目に会わせてもらったけど、今の若い人はどうやろうか…」そしてこう続けて言われました。「ただじゃすまんやろうて」


母は働き者の田舎のおばあちゃんで学歴とかはなかったのですが、苦労して昭和の激動期を生き抜いてきただけに逞しさと時代を見つめる知恵があったのではないかと思います。テレビで山崎豊子の「大地の子」が放映された時は熱心に見ていました。舞台が中国だったので身につまされたようでした。私が南米宣教に子供をおいて行く時に周りから反対されましたが、母は南米摂理の講義を少し聞いて「わかった」と言い、「何がわかったんだ、非常識な」と呆れる主人の氏族に「一番辛いのは母親じゃろうて」と言ってくれたのでした。そして数日後「餞別じゃ」と言って10万円入った封筒と「よその国で腹をこわさんように」と手製の梅干しをくれたのでした。

私は今でもその時のことを思い出すと涙を禁じることができません。



その母も今は霊界から絶対善霊として見守ってくれてることと思います。母が言ったように「ただじゃすまん」時が来ていることを思いますが、私たちは神様、お父様、亨進二代王様、三代王権と共にそしてサンクチュアリの兄弟姉妹と共に歩めることが本当に感謝な立場です。


これまで恵まれた環境で生きてきましたが、先人の方々が頑張って激動の時代を生き抜いて来られたように、逞しく歩んでいきたいと思うものです。





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